音楽になったエドガー・ポー

音楽になったエドガー・ポー
 ~~クロード・ドビュッシーとフランス近代を中心に

『エドガー・アラン・ポーの世紀』(研究社・2009年5月)所収

エドガー・アラン・ポーが、本国よりも先にシャルル・ボードレール(1821~67)を旗頭とするフランス象徴派の詩人たちによって高く評価され、フランス19世紀末の美意識に多大な影響をおよぼしたことはよく知られている。

ポーの短編がフランスで翻訳されはじめたのは1840年代前半だが、ボードレール自身は「1846年か47年にエドガー・ポーの断片のいくつかを知った」と書いている。自分が漠然と思い描いていた詩や物語をポーが考え、完璧に仕上げていたことに驚き、異常な興奮をおぼえたボードレールは、1848年~65年の間に、『異常な物語』『新・異常な物語』『ユリイカ』など実に千六百ページもの訳業をなしとげた。

「アメリカでは大したことのないエドガー・ポーが、フランスでは大物にならねばなりません」という思惑通り、彼の翻訳・紹介によって、ポーの詩や散文はたちまち象徴派の源流のひとつとなり、最高の叡知から熱烈な崇拝を捧げられることになる。

ボードレールからポーの文学理論と美学を伝授されたヴィリエ・ド・リラダン(1838~89)は、ポーの美学にもとづいて『残酷物語集』(1883)や『新・残酷物語集』(1888)を書いたと自ら告白している。

20歳のとき、「もっとよく読めるようになるために」ロンドンに渡ったステファーヌ・マラルメ(1848~98)も、帰国後は高等中学の英語教師をしながら詩作と翻訳にとりくみ、1875年には『大鴉』の訳書をマネの挿絵入りで刊行している。

ジョリ=カルル・ユイスマンス(1848~1907)は「デカダンの聖書」と讃えられた『さかしま』(1884)の中でエドガー・ポーを賞賛し、文学の面で初めて「人間の意志では知り得ない、あの抑えがたい衝動を探求した」『天の邪鬼』に注目している。ボードレールを象徴派の始祖、マラルメらを第二世代とするなら、彼らが第三世代に与えた影響は激烈だった。アンリ・ド・レニエ(1864~1936)の長編『生きている過去』(1905)、アンドレ・ジッド(1869~1951)の『ユリアンの旅』(1893)など、マラルメの火曜会の若きメンバーの作品には、ポーの影響下、あるいはポーを念頭に置いて書かれたものが少なくない。マラルメと文通をはじめたころ、「ポーはまったく非の打ちどころのない唯一の作家です。彼は間違っていたためしがありません」と書き送ったポール・ヴァレリー(1871~1943)は、評論『ユリイカをめぐって』(1926)の中で、ポーの「深遠で偉大な」思想を賞賛している。

文学上のこうした動きに対して、音楽界ではずっと反応が鈍かった。

ポーにもとづく音楽作品が書かれるようになるのは、20世紀にはいってからである。しかし、19世紀末時代にも、クロード・ドビュッシー(1862~1918)やモーリス・ラヴェル(1875~1937)といった近代作曲家たちは、ボードレールやマラルメの翻訳を通してポーの詩や散文を耽読していた。

『デカダンスの想像力』の著者ジャン・ピエロによれば、19世紀末の文人たちのポー理解には二通りあるという。ひとつは、ポーの詩の理論に惹かれ、実践しようとするタイプで、象徴派の詩人たちに多い。もうひとつは、ポーの怪奇小説の雰囲気に魅せられ、病的なものや不吉なもの、神経現象の描写などに反応するタイプで、こちらはデカダン派と呼ばれる人々が多い。作曲家でいえば、ラヴェルは前者、ドビュッシーは後者だった。

1888年にドビュッシーと親交を結んだ人物は、若き作曲家がリジイア、モレラなどポーの「霊肉分離したような」女性像に魅せられていたと証言している。89年2月、あるアンケートに対して、「好きな作家」にポー、「好きな詩人」にボードレールと答えたドビュッシーは、そのころ『アッシャー家の崩壊』の音楽化をもくろんでいたらしい。

1890年1月14日、文芸評論家のアンドレ・シュアレスはロマン・ロランに宛てて当時のドビュッシーが「エドガー・ポーの短編、なかでも『アッシャー家の崩壊』にヒントを得て、心理学的に展開するテーマにもとづく交響曲を作曲中だ」と報告している。この「交響曲」の痕跡は残っていないが、93年8月に完成された『弦楽四重奏曲』の循環主題は、十五年後に着手されることになる未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』(~1917)の主要主題に酷似している。

しかし、1902年4月、メーテルリンクにもとづくオペラ『ペレアスとメリザンド』の初演を果たしたドビュッシーが、「まったく新しいものを求めて」とりくんだのは、『アッシャー家』ではなく『鐘楼の悪魔』のオペラ化だった。

同年6月には、「この皮肉っぽく残酷な悪魔は、我々のよく知っている伝統的な赤い鼻のクラウンより、はるかに悪魔的ではありませんか」という手紙が書かれている。ポーの『天の邪鬼』が好きで、しばしば書簡でタイトルを引用した彼にとって、悪魔とは悪の精神ではなく、「対比や逆説の精神」の象徴であった。

『悪魔とハープ エドガー・ポーと十九世紀末アメリカ』(池末陽子+辻和彦)によれば、ポー自身が声楽曲やオペラ向けの作品を書く意図をもっていた可能性もあるという。悪魔がオランダの町会議事堂の鐘楼にはいりこみ、正午に13番目の鐘を打ったため町の秩序が乱れるという設定は、20世紀初頭にクラシックの世界で起きた律動上の革命:4拍子系と3拍子系を合体させたポリ・リズムや、3拍子や4拍子にいくつかの拍を加える付加リズム(2+3の5拍子や3+4の7拍子など)の先どりとして読むこともできる。悪魔は、「踊りの歩調の正しい時間を守る」などということは少しも考えずに、バレエのステップであるシャッセ(横に移動する)やバランセ(左右に重心を移動させる)を踏みながら町にやってくる。悪魔が踏む奇妙なステップのうち、ファンダンゴはスペインのアンダルシア地方の舞踊のリズムで、12拍子を3つずつに分割し、必ず最初にアクセントをつける。ラヴェルの『ボレロ』が当初は『ファンダンゴ』と呼ばれていたことからもわかるとおり、躍動感のある3拍子系である。

ドビッシーの書いたシナリオは、大筋はポーに沿っているものの、町が村、議事堂が教会に変わっている。ポーが混乱のまま話を打ち捨てているのに対して、ドビュッシー版では村人の一人が鐘楼に登って神に祈ったため、悪魔は消え失せ、すべては元通りになる。原作では、悪魔が身体に不釣り合いな弦楽器(ポーは「フィドル」としているが、『悪魔とハープ』の著者は実際にはアイリッシュ・ハープではないかと推察している)を膝の上に乗せて、拍子も調子もめちゃくちゃにひっかきながらアイルランド民謡を歌うのに対して、ドビュッシーの悪魔はポケットから小さなヴァイオリンを取り出し、達者な演奏ぶりでカリヨンを弾く。ドビュッシーが残したスケッチのうち、この部分に相当するモティーフには、リスト『メフィスト・ワルツ』を思わせる鋭い装飾音がついている。

1905年1月には、音楽雑誌が企画した作曲家当てのクイズの問題として、このスケッチをもとにした短いピアノ曲が発表されている。その後も作曲はつづけられ、1911年には「きわめて単純だが、非常に流動的な合唱書法」の構想が語られる。指揮者のアンリ・ビュッセルの日誌によれば、12年3月末、ドビュッシーは『鐘楼の悪魔』の無数の素描の中から「きわめて絵画的な楽しいいくつかの断片」を弾いてきかせたとのことだが、現在のところ、わずか3ページのスケッチが残されているのみである。

ドビュッシーより13歳年下のラヴェルにポーの存在を知らせたのは、少年期から同じ教師のもとで学んだスペインのピアニスト、リカルド・ヴィニェスだった。ボードレール『悪の華』を暗記していたヴィニェスは、『パリの憂愁』の序文で言及されているアロイジウス・ベルトラン『夜のガスパール』はじめ多くのデカダン文学をラヴェルに教えた。ヴィニェスとともにパリ音楽院に入学したラヴェルは、ボードレールが訳したポーの怪奇小説を耽読した。しかし、彼がもっとも魅せられ、影響を与えられたのはポーの詩の理論だったと、『モーリス・ラヴェル ある生涯』の著者ベンジャミン・イヴリーは書く。「彼はポーの『構成の原理』を、最も卓越した作曲の教材と評価した。そのなかでポーは、『構想と呼ぶに価するものは、須らく筆にする前から大団円が仕上がっていなければならない」と明言している。これはラヴェルの作曲の方法論となり、彼はペンを執って紙に向かう前に全てを頭の中で考え抜いていた。(中略)創作における理想的な長さについても両者の意見は共通していた。あるエッセイのなかでラヴェルは、ポーの唱える、詩の感興が維持できるのは『せいぜい長くて』半時間、という『詩的原則』を高く評価している。ほとんど例外なく、これはラヴェルの作品における演奏時間の上限でもあるのだが、紙に書きつける前に作品全体を頭の中に入れておくためには、こうするしかなかったのかもしれない。ポーは、詩において美は事実に優先するものであり、事実は散文で扱われるのが似つかわしいと力説した。ラヴェルは、あらゆる芸術作品において美は至高のものだ、と主張することになる」(石原俊訳)

作曲方法こそポーに倣ったものだったが、ラヴェルの作品にポーのテキストにもとづいたものは見られない。しかし、ボードレール『悪の華』からの一節が掲げられている二台のピアノのための作品『耳で聴く風景』(1897)の第二曲「鐘が鳴る中で」は、ポーの『鐘』を背景にもっているのではないだろうか。そして、1905年作のピアノ組曲『鏡』の最後の曲「鐘の谷」も、あるいはまた、弔いの鐘を模した不気味なH音のオスティナートが全編を支配する『夜のガスパール』(1908)の第二曲「絞首台」も。

アロイジウス・ベルトランのテキストを各曲の頭に掲げた『夜のガスパール』は、音で描き出したポーの世界ともいうべきグロテスクの美に満ちている。

ラヴェルの巧みな仕事ぶり、完璧な仕上げは、ドビュッシーを苛立たせた。1907年、出版社のデュランからラヴェルの歌曲集『博物誌』を贈られたドビュッシーは、後輩の才能を認めつつも、「椅子の周りに花を咲かせる彼の『手品師』、あるいは幻術師といった態度」を批判している。「残念なことに、いつも周到に準備されているそのやり方では、たった一度しか人を驚かせることはできない」(デュランへの手紙)

しかし、考え抜かれた緊密な構成、聴き手に与える効果を細かく計算する「やり方」こそが、ポーが創作に当たって採用した方法ではなかったか。

ドビュッシーが『鐘楼の悪魔』を完成させられないでいる間に、ロシアではニコライ・ミャスコフスキー(1881~1950)が『大鴉』に寄せた『交響詩 静寂作品9』を作曲している。ロシアでも、フランスとほぼ同時期の1840年代にポーが翻訳・紹介され、ドストエフスキーに多大な影響を与えたことはよく知られているが、やはりフランスと同様、音楽作品は20世紀初頭まで待たなければならなかったのである。

ミャスコフスキーはモーツァルト以来という27曲の交響曲を書くなど多作家だったが、『交響詩 静寂作品9』は、最初の交響曲が書かれた翌年、1909~10年にかけて作曲された。単一楽章ながら演奏時間は30分近くある。『大鴉』の雰囲気にふさわしく、荘重で悲痛なトーンが支配的な音楽だが、内奥には激情がたぎっており、シェーンベルク『浄夜』の旋律やワーグナー『トリスタンとイゾルデ』の響きがこだましている。

フランスでは、ドビュッシーの後輩にあたるフローラン・シュミット(1870~1958)の交響的エチュード『幽霊宮殿』と、アンドレ・カプレ(1878~1925)の『赤死病の仮面』(弦楽オーケストラとハープのための)が書かれている。

実はシュミットとカプレは、1900年頃、ラヴェルを中心に詩人や音楽家によって組織された独身男性のグループ「アパッシュ(アパッチ族の意)」の仲間だったのである。パリ音楽院でフォーレやマスネに師事し、1900年にローマ大賞を受賞したシュミットの作風は、ジェネレーションにしては古風で、後期ロマン派の色彩感とドイツ的な堅固な様式感をそなえている。1900年~1904年にかけて書かれた『幽霊宮殿』は、レント、アセ・アニメ、プレスク・レント、アニメという緩急緩急の4つの部分からなっている。『幽霊宮殿』は詩のほうだろうか、それとも、『アッシャー家の崩壊』でロデリックがギターの伴奏できかせてくれた狂詩曲のほうの『幽霊宮殿』だろうか。

不安気な出だしこそポー的な雰囲気を漂わせているが、オーケストレーションがあまりに壮麗で、物の怪どもも退散してしまいそうだ。『幽霊宮殿』は1905年1月8日、ラムルー管弦楽団によって初演されたが、ドビュッシーがこれを聴きに行った形跡はない。いっぽう、カプレの『赤死病の仮面』(1908)はクロマティック・ハープと弦楽オーケストラのための作品で、グリッサンドやハーモニックスの技法を駆使して神秘的な雰囲気を演出し、死に神がはいりこんでくるシーンではハープの横木を叩く特殊奏法もおりまぜて、ポー文学中でももっとも色彩豊かな物語を巧みに音楽化している。

カプレは、ドビュッシー晩年の協力者で、編曲やオーケストレーションを多く手がけ、ドビュッシー作品の指揮者としても定評があった。巨匠との出会いは、1907年11月。翌年4月にル・アーブルで開催予定の現代音楽祭で、ドビュッシー作品による演奏会のプロデュースを任されたのがきっかけだった。同年1月にカプレの歌曲を聴いたドビュッシーは、「このカプレは芸術家だ、彼は音響的な雰囲気を見いだすことを知っているし、感受性にも恵まれ、構築のセンスももっている」と激賞している。

しかし、不思議なことにドビュッシーは、1909年7月3日にパリで初演された『赤死病の仮面』については一切ふれていないのである。その日彼は、パリ音楽院の修了試験の審査員をつとめていたから、初演がその時間におこなわれていたら物理的に行けなかったわけだが、若き日のカンタータの改変や交響詩『海』の二台ピアノ版の編曲も肩代わりしてもらったのだから、コメントなどあってしかるべきではないか。

『赤死病の仮面』は、1919年に弦楽四重奏とペダル・ハープ用に編曲され、23年に初演されている。

ドビュッシー自身が『アッシャー家の崩壊』に着手するのは、1908年6月半ばである。脚色・台本の執筆も手がけたドビュッシーは、18日付けのデュランへの手紙で、このところ『アッシャー家』に精力的にとりくんでいると語り、「ときどき私は、まわりの事物に対して正常な感覚をなくしてしまいます。もしロデリック・アッシャーの妹がここにはいってきたとしても、それほど驚かないかもしれません」と書いている。

この前日にカプレがドビュッシー宅を訪れているのは興味深い。もしかすると、『アッシャー家』にとりくむきかっけはカプレだったかもしれぬ。その後もドビュッシーは、進展しない作曲について、幾度となくカプレに愚痴をこぼしている。にもかかわらず『赤死病』についてふれようとしないのはなぜか--。ポーばりの推理を働かせたくもなってくる。

7月5日には、メトロポリタン歌劇場の支配人との間で、『鐘楼の悪魔』と『アッシャー家』の上演契約をかわしている。ポー自身、『ライジーア』『アッシャー家』『ウィリアム・ウィルソン』のようなシリアスで陰惨な物語と同じ年に、『鐘楼悪魔』『使い切った男』のようなバーレスクな物語を書いていたが、ドビュッシーもまた、この二つのオペラを抱き合わせで一晩に上演させることを考えていたようである。

ドビュッシーが作成した『アッシャー家』の台本は、09年6月の第1稿、10年6月の第2稿、16年9月の第3稿があり、最終稿は1幕2場となっている。

ポーの原作からの主な変更は以下の通りである。

1)ロデリック・アッシャーの年齢を引き上げて、容姿もポー自身に似せたこと。
2)作者が明言を避けた近親相姦関係を設定したこと。
3)原作ではわずかしか登場しない侍医の役割を拡大し、マデラインに横恋慕してロデリックをさしおいて彼女を生き埋めにするという役柄に仕立てたこと。
4)壁石に関するロデリックの妄想を具体化し、壁に向かって延々と独白させたこと。
5)同じく原作ではただ部屋の奥を通りすぎるだけのマデライン姫に、原作ではロデリックが即興で演奏することになっている『幽霊宮殿』をアリア仕立てで歌わせたこと。
6)侍医の口を借りて、ロデリックを狂人と断定したこと。

台本は3種類もできたが、「音楽における苦悩への前進」をめざした作曲のほうはいっこうに進まず、完成されたのは1場全部と2場の途中までである。それらをベースに数々の断片を組み合わせ、ジュアン・アジェンド=ブリンやロバート・オーレッジによる補筆がおこなわれている。

アジェンド=ブリン版は1979年にジョベールから出版され、同年にベルリンの歌劇場で初演された。ドビュッシーの音楽がとぎれているところはパウゼで示されたという。オーレッジ版は、デュランから刊行中のドビュッシー全集の一巻として2006年に出版された。オーレッジはさらに補完を試み、同年、ブレゲンツ音楽祭でローレンス・フォスター指揮ウィーン交響楽団、スコット・ヘンドリクス(バリトン)、ニコラス・カヴァリエ(バス)による初演をおこなった。初演の模様はDVD化されているが、材料が少ない後半部分も補筆したため、果たしてドビュッシー作と言えるかどうか、疑問が残る。

ドビュッシーが『アッシャー家』の作曲でめざしたのは、「音楽における苦悩への前進」だった。現存する音楽を聴く限り、半音階や全音音階が多用され、不気味さ、陰鬱さの表現にはある程度成功しているものの、曖昧模糊としたドビュッシーの作曲語法には、ポーがなしとげた「効果の統一」は望むべくもなく、恐怖不足は否めない。危機的な場面になればなるほど、ワーグナー『パルジファル』からの引用が目立つことも、ワーグナー離れを信条にしていたドビュッシーの筆を鈍らせた原因だろう。

『アッシャー家の崩壊』は、オーケストラのための『映像』(1905~12)、神秘劇『聖セバスチャンの殉教』(1911)、バレエ音楽『遊戯』(1913)、『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』(1917)など晩年の大作と作曲時期が重なっており、これらの作品にも『アッシャー家』のモティーフが見え隠れしている。

『遊戯』が書かれた1913年は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』が初演され、20世紀音楽への転換点となった重要な年である。『遊戯』もまた、ブーレーズによって20世紀音楽への扉をあけたと評価された作品だが、同時に序奏は『アッシャー家の崩壊』の序奏と酷似し、マデラインの主題もアレンジして使われるなど、二面性をもっている。同じ1913年に、アンリエット・ルニエ(1875~1956)とセルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)という、ともに1870年代生まれながら国籍も作風も異なる作曲家がポーにもとづく作品を書いているのも興味深い。

ルニエは、11歳のときにパリ音楽院を一等賞で卒業したほどのすぐれたハープ奏者で、ハープの近代奏法の開発と啓蒙につとめ、1901年にラムルー管弦楽団によって初演された『ハープ協奏曲』で大成功をおさめた。ドビュッシー『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』(1904)の初演者でもある。『幻想的バラード』はポーの『告げ口心臓』にヒントを得た作品で、鋭い付点をもつ減7のモティーフが聴き手を落ち着かない気分に陥れる。恐らくこれまでに書かれたハープのレパートリーの中でも最難曲にはいるという作品で、弾き手にとってはその超絶技巧の追求そのものが強迫観念といえるかもしれない。

『アッシャー家の崩壊』でロデリックがつまびくのはギター、『鐘楼の悪魔』ではヴァイオリンまたはハープと弦楽器系が多いが、ポーには擬音の効果を最大限にねらった『鐘』という詩があることも忘れてはなるまい。

ラフマニノフの『鐘』(1913)は、ロシアの象徴派詩人コンスタンチン・バリモントの翻訳にもとづく独唱と合唱とオーケストラのための作品である。熱烈なファンである若い音楽学生から匿名で送られた詩に感興をおぼえたラフマニノフが音楽をつけたというエピソードが伝わっている。ラフマニノフ自身は作曲の動機を、「生涯を通じて、私は、おおらかに鳴り響く鐘の音や、哀調を帯びた鐘の音の雰囲気や音楽に親しんできたのだ。そういう鐘に対する愛着は、ロシア人の誰もが持っている」と書いている。

合唱交響曲『鐘』は、ポーが歌ったそりの鈴、婚礼の鐘、警告の鐘、弔いの鐘にちなんで、4つの楽章にわかれている。ラフマニノフというと、『ピアノ協奏曲第2番』に代表されるような甘美な音楽で知られるが、重厚で、ときに耳なじみのない響きのこだまするこの作品は、さほどの大衆的人気は得られなかったようだ。

そして、この1913年を機に、ポーの音楽化の試みはぱたっととだえてしまうのである。ストラヴィンスキー『春の祭典』の初演以降、クラシック界は二つの方向に分裂する。シェーンベルクはじめ新ウィーン楽派は無調や12音技法をおしすすめ、コクトー率いるフランス六人組は、ポーが神格化されていた19世紀末デカダンスを否定し、18世紀に回帰して冗談音楽にシフトした。第二次世界大戦以降の作曲界は実験合戦の様相を呈し、ポーのようなゴシック・ロマン系がはいりこむ隙間はなかったのだろう。

前衛的な語法の追求も一段落した1984年、ロシアの作曲家ニキタ・コシュキンがギター独奏曲『アッシャー・ワルツ』を書き、ジョン・ウィリアムスに捧げている。ロデリックが即興でつまびくギターの狂詩曲を再現しようとしたのだろうか、「ギターの『メフィスト・ワルツ』をめざした」という通り、悪魔的な技巧が次々に披露されるが、それがすべて明るく楽しげなワルツのリズムに乗っているだけに、よけい不気味さが増す。

その他、イギリスの作曲家ジョセフ・ホルブルック(1878~1958)は交響詩『大鴉』(1900)やオーケストラのための前奏曲『鐘』(1903)、バレエ音楽『赤死病の仮面』など、ポーに霊感を受けた三十曲以上の作品を書いているということだが、現在のところ筆者には音を聴く機会がない。アメリカの作曲家フィリップ・グラス(1937~)にも二幕のオペラ『アッシャー家の崩壊』(1987)があり、デイモン・フェランテの作曲、エプスタインの脚本による二幕のオペラ『ジェファーソンとポー』(2005)もリストアップされているが、こちらもまだ舞台やスコアに接する機会がない。

おそらく、私がここまで聴いてきたクラシック音楽の中で、ポーの作品世界をもっとも巧みに音楽化していると感じるのは、メキシコ出身のピアニスト、ステファン・リトウィン(1960~)が2006年に作曲した『鐘~エドガー・アラン・ポーにもとづくメロドラマと死の舞踏』(語りとピアノ)だろう。鋭い装飾音をともなったピアノの不協和音をバックに英語の『鐘』が奇妙なイントネーションで朗読される。トーンやニュアンスを変えて詩句の反復もあるし、同じリズムでの執拗な反復もある。合間に星屑をまきちらしたようなピアノの走句が挿入される。朗読部分はささやき声から唸り声、奇声までおりまぜ、誇張された抑揚はシェーンベルク『月に憑かれたピエロ』の朗誦法(シュプレッヒ・シュティンメ)を連想させる。器楽部分ではジョージ・クラムの影響を伺わせる内部奏法(ピアノの鍵盤以外の部分を叩いたりこすったり、弦にものを挟んだり弦そのものをひっかいたりして音を出すこと)もおこなわれる。ピアノ書法と朗誦法の相乗作用によって、ポーの怪奇幻想、耽美趣味、恐怖、強迫観念を見事に時間空間に浮かびあがらせている。ポーの音楽化にあたって障害となったと思われるのは、ウィーン古典派時代に確立された機能和声法である。トニック、ドミナント、サブドミナントの三和音を基本に調和と安定を求めたこの語法は、アカデミックな意味では19世紀末まで作曲の方法論を支配しつづけた。その間、ワーグナーの半音階法、ドビュッシーによる革命で徐々に破壊がすすみ、新ウィーン楽派の出現で破壊された。ポーがブームを起こしたころのパリで音楽作品が生まれなかったのは、語法上のしばりが大きかったものと思われる。20世紀後半の前衛音楽のさまざまな試みとは相性が悪かったものの、80年代以降のロマンティシズムへの回帰といった流れの中で、ポーの音楽化が再び試みられるようになったことは喜ばしい。ポピュラー音楽の分野はさらに活発で、1960年代からポーの詩にさかんに音楽がつけられている。ジャンルは多岐にわたり、ボブ・ディランやビートルズ、カントリー・ウェスタンのジム・リーヴス、フォーク歌手のジョーン・バエズ、人気ポップ・シンガーのブリトニー・スピアーズ、ロック歌手のマリリン・マンソンといったよく知られた名前も並んでいる。1976年にはイギリスのロック・バンド、アラン・パーソンズ・プロジェクトが「怪奇と幻想の世界-エドガー・アラン・ポーの世界」というコンセプト・アルバムをリリース、2003年にはアメリカのロック・ミュージシャン、ルー・リードがアルバム『ザ・レイヴン』をリリースしているが、専門外のこととて論評を差し控える。

ポーと音楽という魅力的なテーマを全的にとらえるためには、クラシック、ポピュラー、民族音楽などのジャンルを超越し、すべての語法に熟知し、共通の分析用語を用いて比較検討を試みるような研究が必要であろう。

付 入手可能なCDリスト(PCの関係上、各種アクサン記号が抜けている)
1) Florent Schmitt : Etude pour Le Palais Hante d’apres Edgar A.Poe(1905)
   Georges Pretre+ Orchestre Philharmonique de Monte-Carlo EMI
2)Andre Caplet :Le Masque de la mort rouge,d’apres Edgar A.Poe,pour harpe et orchestre a cordes(1908~09)
   Georges Pretre + Orchestre Philharmonique de Monte-Carlo EMI
3)Claude Debussy :La Chute de la Maison Usher drame lyrique d’apres Edgar
   A.Poe (1908~17) revision et orchestration de Juan Allende Blin d’apres le ma nuscrit autographe
   Georges Pretre+ Orchestre Philharmonique de Monte-Carlo EMI
4) Nikolay Myaskovsky: Silence Op9(1909 ~10)
   Robert Stankovsky+ Slovak Radio Symphony Orchestre NAXOS
5) Henriette Renie :Ballade fantastique(1913)
  Xavier de Maistre Harmonia Mundi
6) Sergei Rachmaninov :The Belles op.35(1913)
   Mikhail Pletonev+russian National Orchestra
   The Moscow state chember choir Deutsche Grammophon
7) Andre Caplet: Conte Fantastique pour harpe et quatuor a cordes d’apres
   Edgar A. Poe,Le Masque de la mort rouge.(1919/23)
   Ensemble Musique Oblique Laurence  Cabel,harpe  Harmonia Mundi
8) Nikita Koshkin:  Usher Waltz(1984) John Williams  SONY
9) Stefan Litwin :The Belles Melodrama and Danse Macabre on a Poem by Edgar A. Poe, For Voice and Piano(2006) TELOS

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