「ショパン・コンクールを沸かせた”アジア系”と”ティーンエイジャー”」(中央公論 2016年1月号)

五年に一度、音楽の”ワールドカップ”

ショパンコンクール二〇一五年十月、ポーランド・ワルシャワで三週間にわたって開催された第一七回フレデリック・ショパン国際ピアノコンクールは、韓国のチョ・ソンジンの優勝で幕を閉じた。私は、四月におこなわれた予備予選を聴き、秋の本大会もオープニングからファイナルまで全行程に立ち会ったので、感慨深いものがある。

チョ・ソンジンはポロネーズ賞も獲得。二位とソナタ賞はカナダのシャルル・リシャール=アムラン、三位とマズルカ賞はアメリカのケイト・リウ。四位もアメリカでエリック・ルー、五位はカナダのイーケ・トニー・ヤン、六位はロシアのドミトリ・シシキン。

日本からは一〇年ぶりに、小林愛実(こばやしあいみ)がファイナルに進出したが、残念ながら入賞は果たせなかった。それでも、全員が二次予選で敗退した二〇一〇年よりは希望のもてる結果といえるかもしれない。

五年に一度のコンクール

ショパン・コンクールは、「チャイコフスキー」「エリザベート」と並ぶ世界三大コンクールのひとつである。五年に一度しか開催されないため、若いピアニストたちにとってはオリンピック以上に貴重な腕試しの機会となる。応募者は回を追うごとに増え、二〇一五年は世界各国から四四五名のエントリーがあった。

もともとこのコンクールは、ポーランドが誇る大作曲家であるフレデリック・ショパン(一八一〇〜四九)の作品の正しい解釈をひろめ、若者たちがスポーツに熱中するようにピアノにもとりくんでほしいと願った地元の教授たちが一九二七年に創設した。当初はまったく知名度がなく、八ヵ国からわずか二六人しか参加しなかったという。

一九三九年にはナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発、コンクールは三回で中断された。会場のフィルハーモニーも爆撃されてしまったが、終戦後の四九年、ショパンの没後一〇〇年を機に再開された。第五回はフィルハーモニーの再建に合わせて五五年に開催され、以降は五年ごとに開催されている。

過去の優勝者としては、イタリアのマウリツィオ・ポリー二(一九六〇年)、アルゼンチンのマルタ・アルゲリッチ(六五年)、ポーランドのクリスチャン・ツィメルマン(七五年)、今回審査員をつとめるヴェトナムのダン・タイ・ソン(八〇年)、ソ連のスタニスラフ・ブーニン(八五年)、今回初めて審査員となった中国のユンディ・リ(二〇〇〇年)など世界的な名前が連なっている。

日本からはまだ優勝者はなく、一九五五年に田中希代子が初めて一〇位に入賞した。六五年に中村紘子が第四位、七〇年には内田光子が日本人最高位となる二位に入賞。八〇年には今回審査員をつとめた海老彰子が五位、八五年は前回審査員だった小山実稚恵が四位、九〇年は横山幸雄が三位(一位なし)、高橋多佳子が五位、九五年も宮谷理香が五位、二〇〇〇年は佐藤美香が六位、〇五年には関本昌平と山本貴志が同率で四位に入賞しているが、以降は入賞者を出していない。

しかし、アジア諸国の中で最もショパン・コンクールに熱心で多くのコンテスタントを送り込むのも日本なのである。今回も、全エントリー国中最多の八八名が応募したが、書類・DVD審査で二五名、四月の予備予選で十一名に減らされてしまった。ちなみに、中国は七七名のエントリーで書類・DVDで二六名、予備予選で一五名(うち二名棄権)。韓国は四七名−二四名−九名(うち一名棄権)という成績。最も打率がよいのが地元ポーランドで、五六名がエントリーして書類・DVDで二一名、予備予選でも半数以上の十一名が残った。

この他に予備予選免除という制度があり、ややこしい事務局がさだめる主要国際コンクールの二位までの入賞者はただちに秋の本大会に出場が認められる。今回は二〇一五年マイアミの全米ショパン・ピアノコンクール優勝のエリック・ルーと同二位のレイチェル・ナオミ・クドウ、二〇一三年パデレフスキ国際二位のディナーラ・クリントン、二〇一二年浜松国際二位の中桐望がこれに該当する。

ポーランド人には国内コンクール枠もあり、優勝したアンジェイ・ヴィエルチンスキと同率二位のルーカス・クルピンスキ、クシシュトフ・クションジェクの三名が予備予選を免除された。この結果、ポーランドは一四名という大部隊で秋に臨んだが、シモン・ネーリングがファイナル、クションジェクとクルピンスキが三次予選に進出するにとどまった。

書類選考・DVD選考

私がショパン・コンクールに興味をもったきっかけは、二〇一〇年の第一六回に遡る。正確に言うなら四月の予備予選の時点である。私は日本ショパン協会の理事をつとめているが、四月の理事会で、予備選の審査から戻ったばかりの海老彰子理事にお会いした。

予備選は如何でしたか?と伺ったところ海老理事は、いずまいをただして、実は大変なことが……ときり出した。

ワルシャワで演奏を聴ける人数は限られているので、一定の曲目を収録したDVDを提出してもらい、師事歴やコンクール歴を記した書類と照らし合わせて出場者を絞る。ところが、この時点である有力なコンテスタントが落ちていることにある審査員が抗議を申し入れ、それが認められて新たにその人と同ランクの五五名が再招集されたとのこと。

この年は折悪しくアイスランドで火山噴火が起こり、予備選の途中から飛行機がまったく飛ばなくなった。コンテスタントは招集日に向けてシベリア鉄道での移動を強いられたり、モスクワの空港で足止めをくらったり、大変だったらしい。招集時間に間に合わないコンテスタントも続出し、審査は混乱をきわめた。再招集組は噴火がおさまってからの日程だったため、かえって被害に遭わずにすんだともきいた。

すったもんだの末に八一名が選出され、秋の本大会ではロシアのユリアンナ・アヴデーエワが、女性としてアルゲリッチ以来四五年ぶりの優勝を飾った。

その年の暮れ、月刊誌『ショパン』二〇一一年一月号に載った中国人審査員フー・ツォンのインタビューで、「ある審査員」が彼であり、「有力なコンテスタント」は他ならぬアヴデーエワであったことが判明した。

この年はリトアニア=ロシアのルーカス・ゲニューシャスとオ—ストリアのインゴルフ・ヴンダーが二位、ロシアのダニール・トリフォノフが三位、ブルガリアのエフゲニ・ポジャノブが四位、フランスのフランソワ・デュモンが五位。

このうちトリフォノフは二〇一一年のチャイコフスキー・コンクールで優勝し、ゲニューシャスも二〇一五年の同コンクールで二位にはいっている。入賞からははずれたが、人気ピアニストのニコライ・ポジャイノフやミロスラフ・クルティシェフもファイナリストに名を連ねている。まさに誰が優勝してもおかしくない錚々たるメンバーだった。

ショパン・コンクールは、いわばサッカーのワールドカップのように、ピアニストをめざす若者たちの憧れの舞台である。ワールドカップにも地区予選があり、そこで勝ち上がらないと本選に出場することはできない。審判の微妙な判定が物議をかもすこともある。しかし、いったん予選で負けた国が敗者復活のように勝ち上がり、最後に優勝してしまうことなど考えられない。世界中が注目している国際コンクールで、どうしてそんなことが起きるのか、不思議に思った。

当初は、抗議を申し入れたフー・ツォンに非があると思っていたが、事情を聞いてみるとどうもそうでもないらしい。『ショパン』のインタビューで「アヴデーエワは追加招集された五五名のひとりのようですね」と質問されたフー・ツォンは次のように答えている。「彼女を落とすなんて考えられませんが、こういうことはコンクールではよくあることです。彼女が参加できないのなら、誰に参加する資格があるのかと、私は怒ってショパン研究所に電話をしました。録音による審査というのは、難しいですね」

フー・ツォンはエリートが受講することで知られるミラノのコモ湖国際ピアノアカデミーでアヴデーエワを指導しており、彼女の実力は知っている。アヴデーエワは二〇〇六年のジュネーヴ・コンクールでも一位なしの二位を得ているし、予備選を聴いたコンテスタントたちによれば、完壁に弾いていたという。

とすれば、そんな実力者がどうしてDVD審査で落ちてしまったのか?そもそも、専門業者に作成を依頼する人から家庭用のヴィデオで撮影する人まで、収録条件がまちまちのDVDで、いったいどこまで公平な審査が可能なのか?他にも実力者が落とされていたのではないだろうか……。いろいろなことを考えた。

予備選からファイナルまで

二〇一五年の書類・DVD審査はエントリーシートが公開されなかったので、予備選の合格者以外は誰が受けていたかわからない。主要国際コンクールで入賞したピアニストや、フランスで評判の天才ピアニスト、チャイコフスキーで二次予選まで進出したコンテスタントがショパンではDVDで落ちていたという話をのちに聞いたものの、今回は誰も抗議を申し入れないまま四月の予備選を迎えた。

予備選の課題はけっこうむずかしく、本大会の一次予選でも二曲しか弾かない練習曲を三曲、それぞれのカテゴリーから選択することになっている。演奏至難とされる「作品10-2」「25-6」「25-11」のいずれかは必ず弾かなければならない。その他にバラード、スケルツォなどから一曲、最もショパンらしさが出ると思われるノクターンとマズルカを一曲ずつで計二〇分強のプログラム。

予備選を聴いたところで、今回のコンクールのレヴェルは前回ほどではないだろうという予測は十分についた。練習曲三曲を完壁に弾いたのは、優勝するチョ・ソンジンと二位となるアムラン、六位にはいるロシアのシシキン、三次予選まで進出する韓国のチホ・ハン、棄権することになるがアメリカのジョージ・リーや韓国のムン・ジョンほか数名ではなかったか。

あとはどこかでミスが出たり、左手と右手がずれたり、タッチが不鮮明になったりと、傷があった。傾向としてはやはり地元コンテスタントに寛容で、練習曲が明らかに弾けていなくてもマズルカやバラード・スケルツォ系で音楽的に見るべきものがあれば合格していた。前回はファイナリストの半数を占め、復活を強く印象づけたロシア人も、今回はあまりレヴェルが高くなかった。予備選とはいえショパン・コンクールで、まさか暗譜が飛んだり、練習曲が弾けないロシア人を見るとは思ってもみなかった。六月にはチャイコフスキー・コンクールが開かれたので、有力者はそちらに流れたのかもしれない。

秋の本大会は、十月三〜七日が第一次予選。第二次予選は九〜十二日、第三次は十四〜十六日。オーケストラと協奏曲を演奏するファイナルが十八〜二十日という日程で開かれた。

審査員は、ポーランドのカタジーナ・ポポヴァ=ズィドロンをチェアマンに一七名。アダム・ハラシェヴィチ、マルタ・アルゲリッチ、ギャリック・オールソン、ダン・タイ・ソン、ユンディ・リといった過去の優勝者とともに日本からは海老彰子が招かれた。

すでに完成されたピアニストが多かった二〇一〇年に比べて、一五年は若く新しい才能を発掘するコンクールだったといえよう。年齢下限が十七歳から十六歳に引き下げられたため、日本でも一九九九年生まれの丸山凪乃、九八年生まれの古海行子、九六年生まれの小野田有紗など十代のコンテスタントがエントリーし、書類・DVD審査と予備選を突破して、見事本大会に出場を果たした(このうち小野田は二次予選進出)。

しかし、世界の”チャイルド化”はさらに進んでいる。五位に入賞したトニー・ヤンは中国系カナダ人で、九八年十二月生まれ。四位の中国系アメリカ人、エリヅク・ルーは九七年十二月、二次予選まで進出した中国系カナダ人、アニー・チョウは九八年三月生まれ。

十六〜十七歳の三人は、そろって一九八〇年の優勝者にして審査員、ダン・タイ・ソンの門下生なのだ。ダン・タイ・ソンは三位に入賞したケイト・リウ(九四年五月生まれ)や、六月のチャイコフスキーで二位にはいったためショパン・コンクールを棄権したジョージ・リー(九五年八月生まれ)も指導している。ともに中国系アメリカ人。二〇一五年のコンクール界はまさに、中国系のダン・タイ・ソン門下旋風が吹き荒れた年となった。

早熟の逸材たち

優勝したチョ・ソンジンも、十五歳で浜松国際コンクールを制し、十七歳でチャイコフスキーに三位入賞を果たした早熟の逸材である。すでに高名なピアニストなので、四月の予備選に出てきたときは少し驚いた。聞くところによると、彼が浜松で優勝したのは二〇〇九年と昔すぎるし、チャイコフスキヤー三位だったから、予備選免除の対象外だったらしい。

もうひとつびっくりしたのは、あのチョ・ソンジンが予備選に出てくるのだから、どんなにたくさんの人が聴きにくるだろうと身構えていたら、とくに客席が埋まる様子もなく、むしろ地元のコンテスタントが出場するときのほうがずっと聴衆が多かったことだ。

インタビューなどでチョが語っているところによると、チャイコフスキーに入賞したときは韓国在住だったため、思ったほどヨーロッパでの演奏の機会は得られなかったという。前回のショパン・コンクールのときは十六歳で、年齢制限から出場できなかった。彼にとって二〇一五年のショパンは「待ちに待った」コンクールだったといえよう。オリンピックなどでも大本命が優勝するのは逆にむずかしいとされるからプレッシャーもあったと思うが、全ラウンドを通じて完壁な仕上げで勝ち抜いた心技体の強さには感服する。

九月で二十歳になったばかりの小林愛実も、キャリアの長いピアニストだ。早くから天才少女と謳われ、小学校四年生で全日本学生音楽コンクール全国決勝大会で優勝。以降、パリ、ニューヨーク、モスクワ、ワルシャワ等でもコンサートを開き、「アイミ・コバヤシ」の名は世界に轟いている。

十四歳でEMIクラシックスと契約を結んだ。デビュー・アルバムがリリースされたときは、都内のホールで開かれた発表イベントに出かけていったおぼえがある。

四月の予備選で聴いた小林は、十四歳のときとあまり変わらない印象だった。極端な前傾姿勢で体重をかけ、しばしば腰を浮かせて弾いていたが、秋の本大会では背筋をすっとのばし、すっかり大人の弾き方に変貌をとげていた。

ラウンドごとに演奏が自然になり、ファイナルの協奏曲は、たった今降りてきた音楽と遊びたわむれているような新鮮さで、オーケストラとも呼吸が合っていた。子役から大人の俳優への壁を苦しみながら越えつつある感じで、今後の展開が楽しみだ。

ダン・タイ・ソンの若き門弟たち

文字通りチャイルド・コンテスタントのトニー・ヤンは、本来は二〇二〇年が目標だったが、年齢制限が引き下げられたので、試しに受けてみようかと出場を決めたとのこと。師匠も両親も、そして本人も二次予選まで行けば十分と思っていたらしく、協奏曲の準備がまったくできていなかった。オケとのリハーサルのときもピアノの上に楽譜を並べ、めくりながら弾いている状態。しかし、本番では、やや破綻が多かったものの、十六歳の瑞々しい感性と熱い情熱をもって最後まで弾ききり、聴衆の喝采を浴びていた。

まだ高校生なので、音楽以外の勉強にもとりくんでいる。せきれい社のムック『第17回ショパン国際ピアノコンクール全記録』のインタビューでは、「数学や物理学、生物学にも興味があります」とのことで理系らしい(演奏から受ける印象はむしろ逆なのだが)。ピアニストになるのは「夢」だが、まだはっきり決めていない、両親はこれからの時代にピアニストとして生活していくことは至難のわざだと心配しているらしい。

いっぽう、一心不乱にピアノに打ち込んでいるのは、四位にはいったエリック・ルー。若いのに音楽が老成していて、子供のころから「バラード第四番」のような大人の曲を弾きたがったという。師のダン・タイ・ソンは「この子の音楽性は特別なもので、それをスポイルしたくなかった」と語る。好んで内省的な作品を選び、遅めのテンポで、どこまでも深く沈潜していくような演奏をするが、ときどき気が滅入ってしまう。私は、軽やかに弾かれたワルツ「作品四二」が一番好きだった。

エリックと同じカーティス音楽院に学び、四月からダン・タイ・ソンの指導を受けているケイト・リウはチョ・ソンジンと誕生日が五日違いの二十一歳。鍵盤をまったく見ないであたかも宇宙の彼方と交信しているような演奏スタイルは独特の魅力を放つ。とりわけポーランド人審査員たちから高い評価を受け、第三位とマズルカ賞に輝いた。

二度、三度と挑戦する人もいる

若手の活躍が目立つ中、ベテラン勢(二十代後半をベテランと言うなら)にはややきびしい結果になった。三次予選に進んだ中では、ロシアのガリーナ・チスティアコーヴァが八七年生まれと最年長。気品あふれるピアノで、柔らかな音でしっとりと歌いあげる。

エリック・ルーとともに予備選免除となったレイチェル・ナオミ・クドウは、日本人と韓国人の間に生まれたアメリカ国籍のピアニスト。彼女も八七年生まれだから、エリックとはちょうど一〇歳違う。エンタテインメントに徹したアプローチで、ワルツ「作品34-1」など、舞踏会の情景が浮かんでくるようなイメージ豊かな演奏に聴きほれた。彼女も、そして同じく八七年生まれの韓国のアン・スジョンも日本の須藤梨菜も、二次予選で姿を消してしまった。

トニー・ヤンと一〇歳違いの八九年組は、もう少し健闘した。第二位にはいったカナダのシャルル・リシヤール=アムラン、ファイナリストとなったクロアチアのアリョーシャ・ユリニッチ、ファイナルに進めなかった中で最優秀賞を得たウクライナのディナーラ・クリントン、同じく三次予選まで進出したアメリカのアレクセイ・タルタコフスキー。

アムランは予備選のときから余裕のあるステージで、競っているという感じがしなかった。本大会でも「バラード第三番」「ロンド作品一六」など軽めの曲を選び、優雅・洒脱なアプローチで聴き手を楽しませる。ところが、第三次予選の「ソナタ第三番」は一転して真正面から大曲にとりくみ、スケールの大きな演奏で見事ソナタ賞に輝いた。クマさんのような風貌で「テディ・ベア」と親しまれている彼が、実は本当の”熊”なのだと悟った次第。

ファイナルでは唯一人「ピアノ協奏曲第二番」だったので、練習不足のオケに足をひっぱられた。同じく二番を演奏予定だったクリントンがファイナルに進んでいたらと悔やまれる。

五年に一度のコンクールだが、二度、三度と受ける人もいる。成績を落とすリピーターが多い中、ユリニッチは、前回は一次で落ちたのに今回はファイナルに進出したから大躍進。「ピアノ協奏曲第一番」では、多くのコンテスタントが手を焼いた「重いオーケストラ」とも融和して親密な語らいをきかせる。モーツァルトのようなテイストが新鮮だった。

八九年組で残念だったのは中国のチョン・チャン。クララ・ハスキル・コンクール優勝の実力者で、三次予選では二曲のソナタを楽しみにしていたのに、なぜか二次で落ちてしまった。強烈な個性で楽しませてくれたギリシャ=ヴェネズエラのアレクシア・モーザも二次止まり。どうも今回は、同じ程度の出来だと年齢の若いほうに票が集まったようだ。

十一月二十三日、優勝したチョ・ソンジンのリサイタルが東京オペラシティで開かれた。メインはワルシャワでも評価の高かった「二四の前奏曲」。コンクールのときは構築性が前面に出ていたが、この日はよりマインドが開き、悲しみとやすらぎ、暗い情熱、優雅さなど各曲の性格がきめ細やかに描かれていた。

まだ二十一歳。ほぼ完成に近づいていた前回優勝のアヴデーエワと違って彼には計り知れないのびしろがある。長い演奏人生、コンスタントな活動と熟成を心から祈りたい。

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