東京藝術大学付属高校の入試は、一月末だったように記憶している。
唯一の国立の音楽高校。全校生徒が百二十人で、募集は一学年一クラスの四十人。専攻別に人員枠があり、作曲科は二〜三名、ピアノとヴァイオリンは十名前後。ヴィオラとチェロが四〜五名。残りは管楽器と打楽器。
ピアノ科は四倍程度の倍率だが、プロをめざす精鋭がそろうので狭き門だ。
三ヶ月前に課題曲が発表される。一次試験は音階、アルペッジョなど基礎的なものと練習曲、バッハ。私のときはケスラーの練習曲二曲と『イギリス組曲』が出た。バッハは得意だが、ケスラーの片方の練習曲がどうしても弾けなくて、自信がなかった。
ピアノは手がかじかむと弾きにくい。寒い季節は毛糸の手袋とカイロが手ばなせない。今のようにホッカイロがなかった時代で、携帯カイロは、楕円形のケースにベンジンをしみ込ませた綿を入れて火をつける。独特の臭気が緊張感をいやまさせる。
高校はお茶の水にあった。芸大の前身の東京音楽学校の分教場(愛好家が嗜みのために音楽を学ぶ場だった)の校舎をそのまま使った古い木造建築だ。
一次試験当日は、冬晴れの日で底冷えのする寒さ。今のようにダウンなどなく、オーバーのポケットに携帯カイロを入れ、手袋をはめた手でにぎりしめてもなかなか温まらない。表面は温かくなっても、芯のところが冷えきっている。
かじかんだ手のまま試験場に行くと、寒々とした廊下に申しわけ程度に小さな火鉢が置かれていた。ベンジンとはまた違った匂いがあたりを包み、空気を霞ませる。
結局手はじゅうぶんに温まらず(きっと緊張もあったろう)、いつも弾けない練習曲がそのときだけ弾けるわけもなく、いくつかのパッセージでミスが出た。
ダメだった…。完全に失敗したと思った私は、その日のうちに貼り出される発表も見に行かず、母にまかせた。合格したと聞かされたときは、嬉しさよりも不思議な気持ちが沸き上がってきた。指導教官に電話したところ、練習曲は他の受験生もミスがあり、バッハはとても良く弾けていたので問題なかったとのこと。
二次試験は大好きだったシューマンの『アベッグ変奏曲』で、入試なのにルンルンと弾いて帰ってきた。三次試験の聴音・ソルフェージュも学科の試験も合格し、首尾よく十二名のピアノ科の仲間入りをすることができた。
中学は学芸大付属に通っており、音高の受験に失敗していたらおそらく音楽の道には進まなかったろう。良かったのか悪かったのかよくわからないが、今も冬というと、氷のように冷たい手を火鉢にかざしていた試験前の数分がまざまざと蘇ってくる。