【DVD視聴記】「ベネデッティ・ミケランジェリ 伝説のルガーノ・リサイタル1981」(ムジカノーヴァ 2003年9月号)

抑制の仮面からにじみ出る抒情、即興性、ロマンティシズム

ベネデッティ・ミケランジェリ伝説のルガーノ・リサイタル1981 DVD視聴記

(BMGファンハウス9月25日発売)

ミケランジェリは孤高のピアニストと言われる。完璧なテクニックと透徹した解釈で、ごく限られたレパートリーのみを弾く。ピアノから美音を引き出すことに腐心し、楽器の状態や自分のコンディションに満足できないときはキャンセルをくり返す。裏を返せば、メカニックにこだわるあまり、人間味のない演奏をする人と受けとられかねない。

でも、一九三九年、十九歳でジュネーヴ・コンクールで優勝したときのリスト『ピアノ協奏曲第一番』など、まるでオペラ歌手のようで、ルバートを多用し、指揮者そっちのけで歌いまくっている。審査員のコルトーが「新しいリスト!」と叫んだ演奏だ。以降、四一年のグリーグ、四二年のシューマンの協奏曲と、まさにコルトー風のロマンティシズム溢れる演奏がつづく。後年の録音で聴くような、テンポを抑えた不感無覚の演奏とは対照的だ。

「これらの録音を聞き直してみると、ミケランジェリの初期の演奏が叙情、それもオペラ的な、偉大な声の叙情に浸っており、暖かく情熱的であることがわかる」(ピエロ・ラッタリーノ・木村博江訳)

オペラ派と不感無覚派。二種類のミケランジェリがいる。これはいったい何なんだ、と思っていたところに、一九八一年に収録されたルガーノ・ライヴを視聴する機会を得た。

ある時期以降のミケランジェリが、何らかの理由で表現を抑制するようになったのは明らかだ。演奏に自分が出すぎることをよしとしないのか、あるいは、その場の感興に身を任せることを戒めているのか。音響上の計算か、精神的な問題なのか、それとも?

その疑問に対する答えはすぐには出ないが、今回のライヴ映像で、彼は決して音色美や冷徹な解釈だけのピアニストではないことを再認識させられた。

映像では、演奏者の表情や手の動きも見ることができる。戦前の録音のようにむきだしの情熱を発散させることはなくなってしまったけれど、ちょっとした眉毛の上げ方、口をもごもごさせたり下唇を突き出したり、奥二重の瞼をぴくぴくさせるときなど、ミケランジェリの内面で起きている大きなドラマをかいま見たような気がする。とくにベートーヴェンの演奏中に、それを感じた。彼の内部では、荘厳な大伽藍が建築中なのだ。彼は、その設計者であり、管理者でもエンジニアでもあり、細かいパーツをはめこんでいく作業員でもある。

最初に置かれたのは、CD未収録のソナタ第十二番。第一楽章のテーマの歌い方がすてきだ。歌い出しからして、やさしい気持ちが息づいている。音色の変化と絶妙の間合いで、旋律のカーヴをすみずみまで表現する。左手は和声の変化を克明に刻み、適切なバス進行で支える。当たり前のことをやっているだけなのだが、すべてがツボにはまっている。

表現に見合ったテクニックの幅も広い。軽やかな部分では手首のスタッカートを使い、緊迫感が必要なところでは、腕から直接叩きつける。指を手前にひきよせるレガートを多用するが、必要に応じて関節のバネもきかせる。第二楽章は、あたかもオーケストラが弾いているように、各声部の進行がくっきりときこえてきた。

やや不満だったのは、第三楽章「葬送行進曲」。主に前腕の上下動で弾くため、筋肉質の和音になっている。ドイツ系、ロシア系のピアニストならもっと重さを使って弾くだろうなぁと思った。解釈自体は非常に重々しいのだが、音響的には多少重量感に欠けるうらみがある。ホールで聴いたらまた別かもしれないが。

一転して、クラヴサン音楽風のパッセージではじまる第四楽章は、スカルラッティやガルッピの名手であるミケランジェリの真骨頂。指のバネがきいていて、すべての音がクリアーに聞こえる。この楽章にはいる前、悲痛な音楽から明るく賑やかな音楽に移行する瞬間の表情の変化にも注目。

ソナタ第十一番は、溌剌とした演奏。このときミケランジェリは六一歳だから現在のポリーニと同年配だが、ずっと若々しい感じがする。ソナタ形式の第一楽章では、類まれな構成力を見せつけられた。大伽藍の中で、自分がどの位置、どの高さにいるかを測りながら弾いているようなところがある。計算が先に立つという意味ではなく、時間の流れに沿って構築しながら、全体を腹中におさめているという感じ。ミケランジェリの完璧主義は、技巧や音響にとどまらず、すべてを兼ね備えた大伽藍を構築する上での完璧さ、という意味なのだ。

残りの三つの楽章では、メロディ・メーキングの妙を堪能した。第二楽章の第一主題。鍵盤を愛撫するような左手の和音に乗って、旋律が内省的に歌われる。手首のしなりを使って音に輝きと艶を与えている。第二主題で上声と内声が歌いあうところは、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏のように聞こえた。第三楽章のメヌエットはチャーミング。主部のテーマの結尾では、装飾音をつけて上がって行ったあと、いったんさっと手をひき、トップの音だけ向こう側にタッチすると、特段に甘い音が出る。

第四楽章は、さまざまに装飾され、表情を変えるメロディを映し出す鏡のような演奏だった。時折り上を向いて頬をゆする。内弟子として師事したピアニスト高野耀子さんによれば、自宅でのミケランジェリは、口もとをほころばせ、天井を向いて実に楽しそうに弾いていたとか。舞台に出ると、途端に鉄仮面みたいになってしまうのだそうだ。

こんなにすばらしい演奏なのに、拍手はパラパラ。拍手していない人もいたりして、何だか奇妙な雰囲気だ。ミケランジェリは聴衆をにらんで頭を下げる。カーテンコールで戻ってきたときは、右の頬をかすかにゆがめた。これで笑っているつもりなのだろうか。

後半二曲は、二ヶ月前にハンブルクでスタジオで録音したときと同じ曲目である。シューベルト『ソナタ第四番』は、シューベルトの初期の作品にしては、かなり耽美的な演奏だ。第二楽章はほのぼのした曲想だが、ミケランジェリが弾くと素朴な味わいは出ない。音は妖しく光り、アルペジオはラヴェルのような響きに溶ける。第三楽章でもそうだが、しばしばバスとメロディの音をずらし、歌謡性を強調している。手もとを見ていると、バスを入れたあと、右手だけストンと落とすようなタッチでベルカントな音を出している。指先で練るような動作をせず、タッチのスピードで音色を変化させる。このあたりはラテン系の特徴なのか、ラローチャも同じ技法を使っていたのを思い出す。

ブラームス『四つのバラード』は、二ヶ月前のスタジオ録音とともに、七三年のルガーノ・ライヴでの録音も残っている。テンポは、このときに比べるといくらか早く、表現もいくらか明るい感じがする。しかし、感動的な演奏であることに変わりはない。

ミケランジェリ本来の音は透明度が高く、リズムは軽く、タッチは鋭い。これらは、ブラームスを弾くときは障害になることが多い。しかしミケランジェリはバスを深くひびかせ、上声をくすませ、内声を強調することによって響きに重厚感を与えている。音楽的には、自分の中に深く沈静するブラームスは、スイスに移住してからのミケランジェリの心情にぴったりだったのではないだろうか。第一曲の淋しげな和音の連結、心に滲み入るような旋律と劇的な中間部が対立する第二曲。とりわけ、憧れではじまり、際限なく心の奥底に降りていく第四曲では、聴く者まで魂の震えを追体験するような気分を味わった。

ミケランジェリは、溢れんばかりのテンペラメントを身内にとじこめて、作曲家と作品に奉仕する方向で厳しく自己を律した人なのだ。このライヴ映像では、その抑制の仮面からにじみ出る抒情、即興性、凝縮されたロマンティシズムをじっくりと味わってほしい。

2003年9月20日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top