【巻末エッセイ】「黄金仮面」(光文社文庫 江戸川乱歩全集 第7巻)

異邦人(又ハ:気持ち悪いもの大好き)

昔から、気持ち悪いものが好きだった。母と一緒に買い物に行くと、漢方薬のショーウィンドーの前で動かなかったという。サルの頭の黒焼、乾燥イモリ、マムシの焼酎漬け。

本業のドビュッシー研究でも、グロテスク趣味にばかり目が行く。エドガー・ポーの怪奇小説に惹かれ、『アッシャー家の崩壊』でオペラを書こうとしたドビュッシー。ゴヤの版画集『カプリチョス』に触発されて、『白と黒で』を書いたドビュッシー。友人の詩人が仏訳したアーサー・マッケンの猟奇小説『パンの大神』を耽読したドビュッシー。

私の強調してみせるドビュッシー像は、ドビュッシーといえば印象主義、ピンク色のふわふわした音楽だと思い込んでいるクラシック・ファンには嫌悪感を催させたらしい。印象派が自然のうつりかわりをそのまま映しとる流派だとすれば、ドビュッシーが好んでいた象徴派・デカダン派は人工美を愛する反自然主義。まるっきり反対なのに。

最初は、事実を知らないからだと思って一生懸命説明していたが、次第に見当はずれに気づいた。日本の聴衆は、印象派の絵画が好きなのだ。だから、ドビュッシーの音楽もそういうふうに聴きたいのだ。あるピアノの先生から、「私ね、きれいなものが好きなの」と言われたときは、ショックだった──。

そんな私が乱歩作品で好きなのは、断然、初期の怪奇・幻想系。とりわけ、『芋虫』と『鏡地獄』だ。『鏡地獄』では、ぐるりを凹面鏡で囲まれた主人公の恐怖をしっかり追体験したし、『芋虫』では、異形の物体を微に入り細を穿って描写する乱歩の筆のあとを、舌なめずりするような気持ちで読んだ。

『芋虫』はさまざまな受けとられ方をしたようだ。残酷でいやらしい、と敬遠されたり、反戦小説として読まれたり。乱歩は『探偵小説四十年』の中で、むろん戦争は嫌いだが、たとえば「なぜ神は人間を作ったか」というような命題の方が、はるかに根本的で、強烈だ、文学は政治よりもっと深いところにこそ領分があるのではないか、と書いている。

「『芋虫』は探偵小説ではない。極端な苦痛と快楽と惨劇とを描こうとした小説で、それだけのものである。強いていえば、あれには『物のあわれ』というようなものも含まれていた。反戦よりはその方がむしろ意識的であった」

戦争で四肢を奪われ、聴覚と言語を失い、触覚と視覚だけが残された夫の、たったひとつのコミュニケーションの手段である目をつぶす妻。ひとかたまりの黄色い肉塊でしかなくなった彼の、つぶらな瞳がうとましい。楽しみといっては肉欲を満たすことだけなのに、彼の中には軍隊式の倫理観が残っており、妻の誘いに対して、目に苦悶の表情を浮かべる。あの目さえなければ、二人は完全なけだものになれるのに。

人間の尊厳、人はどこまで行ったら人でなくなるのか、という根源的な問いかけを究極の形で突きつけた、すさまじい作品だ。

タイトルにまつわるエピソードも面白い。この作品は『新青年』昭和四年正月号に掲載されたのだが、編集長から電話で、『芋虫』では虫の話のようで魅力がないから、『悪夢』に変えてくれないかと言ってきた。乱歩の方では、その方がよっぽど平凡で魅力がないと思ったが、編集者の意見を尊重してそのままにした。

もともと乱歩は他力本願で、人がほめればそうかと思い、くさされればもっともだと思うようなところがあったらしい。

「私は子供のころから、私は私なりの意味で、『異邦人』だと思っていた。周囲の子供たちと、物の考え方も好き嫌いも、まるで違っているので、いつもハチブにされているような気がしていた。これは大人になっても同じことで、社会と交わって行くためには、私は本当の自分を隠して、仮面をかぶって暮らすほかなかった」(『探偵小説四十年』、以下同)

そんな「異邦人」の書くものが世間にもてはやされるわけがないという先入観があるから、自分の判断に自信が持てない。『芋虫』のタイトルをあっさり変えたのも、そうした理由からだという。このあたり、私がいつも感じているジレンマにも通じるような気がして、共感をおぼえた。

「異邦人」で思い出すのは、亡き祖父青柳瑞穂である。一八九九年生まれの祖父は、乱歩の五歳年下にあたる。乱歩の処女作『二銭銅貨』は一九二三年に発表されているが、祖父の最初の訳書が出たのはその十年後。黒猫の金色の眼が不気味に光る装丁の「佛蘭西怪談集」という本がそれで、モーパッサンの『手』や『オルラ』、ゴーティエ『死女の恋』『ミイラの片足』。ロートレアモン『マルドロールの歌』からも一篇収録されている。

井伏鱒二を中心とした「阿佐ヶ谷文士」の仲間うちにいた祖父は、さながら、自然主義者に囲まれた反自然主義者、といったふうだった。ルソー『孤独な散歩者の夢想』を訳したときはみんなが手紙をくれたが、『マルドロールの歌』は沈黙をもって迎えられたらしい。わずかにこの翻訳を喜んでくれたのが、死の前の太宰治。祖父が書いた初めての小説『夜の抜け穽』は、ポーの『リジイア』を自由に翻案したような怪奇譚だったが、純文学の雑誌『群像』に持ち込まれたものの、採用されなかった。

祖父と乱歩が出会う機会はなかったようだが、わずかな接点は宇野浩二である。『探偵小説四十年』を読んでいたら、『D坂の殺人事件』や『心理試験』を発表したころの乱歩が上京して唯一訪問した文壇作家が宇野だった、と書かれていてびっくりした。宇野は私小説の先輩として、阿佐ヶ谷文士たちの尊敬を集めていたのだから。

子供のころから自然主義文学になじめなかった乱歩は、いわゆる文壇小説を一切読まなかったが、ふと手にした谷崎潤一郎『金色の花』が、ポーの『アルンハイムの地所』や『ランダーの別荘』に酷似していることを知り、狂喜した。「谷崎氏の小説を機縁として、あのころの日本文壇には反自然主義ともいうべきものが起っていたことに、やっと気づき、そういう新文学に対して興味を持つようになったが、中にも佐藤春夫と宇野浩二に傾倒した」とある。

乱歩によれば、宇野浩二は私小説の神様のように言われているが、初期のころはそうでもなく、『新青年』や『新趣味』の愛読者で、下積み時代はドイルやルブランの下訳をしていた。そういえば、乱歩の初期のころの文章は、どことなく、句読点と関係代名詞のやたらに多い宇野の文体に似ている。乱歩に出会う前の横溝正史が、『二銭銅貨』を宇野が変名で書いた小説だと思っていたというエピソードもあるぐらいだ。

乱歩が本郷の菊富士ホテルに宇野を訪ねたのは、大正十四年一月。東西の探偵小説談義に花が咲き、宇野は早速その会見の模様を、『報知新聞』に二回つづきで書いた。当時の報知は朝日、毎日をしのぐ大新聞で、一流作家からいきなり論評された乱歩は、ソワソワして何も手につかなかったと回想している。

翌年、乱歩は最終的に上京して牛込に居を定めたが、そこに宇野が訪ねてきたことがある。最初の長編『闇に蠢く』が書けなくて鬱状態にあった乱歩は、折角あこがれの人が訪ねてきてくれたのに、家の者に「旅行に出ています」と言わせて追い返してしまった。その後本当に旅行に出た乱歩は、居留守をわびる手紙を書き、それに応えた宇野は、乱歩に純文学を書くことをすすめている。

「おだてるわけではありませんが、あなたが、この後探偵小説でなく、普通の創作にも精進されることを望みます。誰だって、楽に、そんなに容易に、創作の出来るものではありません。
創作は人の一生の仕事です。今の所謂中堅とか、既成とかいふ作家の中でも、ちゃんとした人といふのは何人もいるものではありません。僕なども、余程奢って考へても、十分の坂を三分か四分上ったところです」

「おだてるわけではありませんが」という書き方に、探偵小説を「普通の創作」より一段低く見る姿勢がみえかくれする。

しかし、乱歩は純文学作家になるつもりはなかった。だいたい、ほぼ同世代の白樺派のヒューマニズムというものが性に合わなかった。純文学方面にも認められるような探偵小説を書きたいとは思うが、普通の意味のリアリズム文学を志す気はさらさらない。自信がないからではない、探偵小説の方がずっと面白いと思うからだ。

「これは現世のリアルを愛せず、架空幻想のリアルを愛する、私の少年時代からの性癖によるもののようである」

今だったら、乱歩の同胞も沢山いるのではないだろうか──。

乱歩は早く生まれすぎたのか。気持ち悪いもの好きの乱歩が自身を異邦人と感じるような風土がこの国にあり、ある種の人々を窒息させているのは確かなようだ。そのことを、乱歩が明快な形で書いてくれていて、それを引用できるのがとても嬉しい。

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