ルル──水の象徴
北九州芸術劇場プロデュース
原作 F・ヴェデキント
構成・演出 白井晃
脚本 能祖将夫
今、どんなカレシとつきあっているか、一目瞭然でわかる女性がいる。
カレシの好みによってお嬢さま風になったりチーママ風になったり、パンクっぽくなったり・・・。ファッションや食べ物の好みまでがらりと変わってしまう。
演技か? 違うと思う。本当にそのキャラになりきっているのだ。
ルルは一見、この「なりきり」キャラの象徴のような女性像にみえる。
彼女は、男たちによってさまざまな名前で呼ばれている。夫で雑誌編集長のゴルにはネリー、新聞社社長のシェーンとその息子アルヴァにはミニヨン。
ルルは、「みんな好き勝手にあたしのこと呼ぶけれど、あたしはルル!」と叫ぶ。でも、カメラマンのシュバルツが「エヴァって呼んでいい?」ときくと、別に拒否はしない。
モデルの彼女がポーズをとると、ショットごとにまるで表情が変わり、シュバルツを驚かせる。ゴルは、もう少し唇を開け、と言う。シュバルツは衣装を下げさせようとする。ルルは拒否しない。「あたしはみんなが求めることをしているだけよ」。
雑誌のクラビアに寄稿するレズビアンの詩人ゲシュヴィッツは、こうした人間模様を外から眺めながら、ルルのありようを客観的にとらえようとする。
「あなたを見ているとイメージがどんどん沸いてくるの。あなたは水ね、容れ物によって姿を変える」
水は温度によっては氷にも炎にも水蒸気にもなり、反映するものによってさまざまに色合いを変えるが、それ自体は無色透明である。
ゲシュウェッツのセリフの「あなた」を普遍的な「女性」に置き換えても、少しも違和感はないだろう。「なりきり」キャラの女性たちもまた水であり、それぞれの「カレシ」という容器にはいって姿を変える。いわゆる「あなた好みの色に染まる」というヤツだ。
でも、ルルは本当に男たちの色に染まっているのだろうか? 男たちの差し出す容器に唯々諾々とはいるふりをして、逆に、その容器によって彼らの器量を計っているのではないだろうか? 彼女の発言の数々を読んでいると、そんな気がしてくる。
ルルを見ていると思い込んでいる男たちは、本当はルルという水鏡に自分たちの欲望を反映させているにすぎない。ネリーもミニヨンもエヴァも、彼らの想像力が生み出す幻影にすぎない。ルルは、そのことをちゃんと知っている。
第一幕第一場の終わり、ルルがシュバルツといちゃついているのを見たゴルは、憤激のあまり死んでしまう。ゴルの死体を前にして、シュバルツはルルに「僕の目を見て」と言う。ルルは「あたしが映ってるわ」と答える。
ゴルの死後、ルルを妻にしたシュバルツは、「あたしはバージンよ」という彼女の言葉を簡単に信じる。ルルが、育ての親でもあり愛人でもあるシェーンとかわすシュバルツ論は、なかなか奥が深い。「あたしのことが分かっていないのに、あたしを愛してる! あたしがどんな女か分かったら、あの人あたしを海に沈めるわ」
そして、シェーン自身に対しては、こんな風に忠告する。
「あなたはあたしを素直な女だと思ってる、男たらしだとも思ってる、気のいい女だとも思ってるわ。でも、あたしはそのどれでもないの。あなたの不幸は、あたしをそんな風な女だと思ってるところなのよ」
シェーンの息子アルヴァに「僕を愛してる?」と訊かれたルルは、こう答える。
「あたしは魂のない女よ」
ルルは、自分をひたすら慕うゲシュヴィッツに、男たちに対するよりはるかに残酷にふるまう。自分の身がわりに刑務所に送り込み、彼女の性向を知りながら男をおしつける。絶望したゲシュヴィッツは首を吊ろうとしてつぶやく。
「水とあの人の心と、どっちが冷たいかしら?」
ゲシュヴィッツは、自分で自分の定義を忘れてしまっている。ルルは水なのだから、水のように冷たく無色透明で、魂がなく、かかわる者次第では恵みにも災いにもなり、容器次第でさまざまに姿を変え、でも本質は変わらないわけだ。
『ルル』は、悪女が次から次に男どもを破滅させる、いわゆるファム・ファタル物語のような体裁をとっているが、実はゲシュヴィッツの純愛物語として読むこともできる。何しろ、父親のシゴルヒを除いて、ルルをルルと呼ぶのは彼女だけなのだから。
ゲシュヴィッツは、こう言う。「男は女に聖なるものか魔性なるものかのどちらかしか求められない。あがめ立てて甘ったれるか、軽蔑しながら恐れるか。だからなのよ。先ず女が女を正しく見ることから始めようっていうのは」
男たちがルルの真実の姿からひたすら目をそむけつづけるのに対して、ゲシュヴィッツは水の象徴たるルルをひたと見つめ、彼女に何度となく裏切られ、辱められながらも、なお彼女を愛し、救おうとする。
これぞ本物の、水のように純粋な愛というものではないだろうか?