「ピアノを弾くことは、アール(芸術)なんてご大層なものじゃない」、と、亡きピアノの師ピエール・バルビゼはしばしば言っていた。「ひとつひとつの音をどのように立ち上げるか、音階をどのようにむらなく弾くか。アルチザナ(職人)の仕事なのだ」
その裏には、ピアニストがアルチスト(芸術家)としてカテゴライズされているということがある。だから、反語としての「アルチザナ」が出てくるのだろう。しかし、もし、すぐれた作品を創り出す「アルチスト」が、伝統工芸の手法で制作しているというだけの理由で「アルチザナ」にカテゴライズされるとしたら。
京都在住の型絵染作家、伊砂利彦の仕事を知ったのは、もう二十年ほど前のことになる。知り合いの美術愛好家からコンサートの礼状に送られた一枚の絵葉書に、「ドビュッシーの前奏曲集から とだえたセレナード」と記されていた。
白い画面に五線譜が並んでいる。あるところまでは規則正しく、途中でかたっとはずれ、散らばってしまう一歩手前がとどめられている。
ドビュッシーのイメージにあったのはグラナダのアルハンブラ宮殿で、ジプシー地区からギターをつまびく音やフラメンコの断片が漏れ聞こえてくる。それから、音楽は突然とだえ、「イベリア」のモティーフが挿入される。伊砂利彦の作品にはフラメンコもギターも出てこないが、崩壊寸前のデカダン(カデンツをはずすの意)が巧妙にとらえられていた。
ドビュッシーの『前奏曲集』は一、二巻あわせて二十四曲あるが、伊砂も二十四枚のパネルを制作しているという。いつか、それらに囲まれてピアノを弾きたいと念じていたところ、五月のある日曜日、国立近代美術館の工芸館で開催中の「伊砂利彦-型染の美」展でトークつきのコンサートを依頼された。
その日、地下鉄を竹橋の駅で降り、北の丸公園のほうに向かうと、舗道には人間によって形成される蛇がのたくっている。近代美術館のゴッホ展への入場を待つ人々の列である。待ち時間百二十分というようなプラカード。工芸館は、そこから千鳥ヶ淵方面に六分ほど歩いたところにある。
重要文化財となっている赤レンガの建物の周囲には、ゴッホ展の喧騒はない。コンサートのために運び込んだベーゼンドルファーのピアノは、二階のロビーに置かれていた。前には椅子が三列ほど。「伊砂利彦とドビュッシーの親和性 水をめぐって」という立て札が見える。
ピアノの前に座った私は、リハーサルをはじめた。プログラムの最初は、『映像第一集』から『水の反映』。水面にしずくが落ち、波紋がひろがって次第に大きな渦を巻き、飽和点を越えたところで滝となって流れ落ちる。
伊砂利彦の転機は、「河津七滝」の連作だった。京都の三代つづく染物屋に生まれた伊砂は、伝統的な型染の手法を用いて自然の諸相を造型化し、富本憲吉が結成した「新匠展」に出品していたが、対象が松から水に移るころから、彼自身の言葉を借りるなら「水だけで滝を表現する」野心をいだき、河津七滝に通うようになった。型紙の制約に合うパターンがあらわれるまでひたすら滝の落口を凝視したため、視覚を乱して立っていられないこともあったという。
写生旅行を終えて帰洛したその晩、伊砂は、大阪のフェスティヴァル・ホールでアレクシス・ワイセンベルクの弾くムソルグスキー『展覧会の絵』を聴いている。
「『はっ』とこれは何か形になると感じました。一瞬に変化する滝の水を写生するのと、一瞬に消え去る音楽の音のパターンには共通するものがあり、滝の写生の訓練で音からの造形が可能になったのです」(「ひとりごと ふたことみこと」)
ここで思い出すのは、一九世紀末のパリ万博でのドビュッシーのエピソードである。パリ音楽院で伝統的な作曲法を学びながら、そこから抜け出る方法を模索していた彼は、万博でジャワのガムラン音楽に接し、並列的な音の置き方、響きの混ぜ方に深い感銘を受ける。ピアノ組曲『版画』の「塔」はガムランのモティーフに拠って書かれている。
ドビュッシーは西洋から東洋へ、伊砂は東洋から西洋へと向かった。共通しているのは、二人とも安易な東洋趣味にも西洋趣味にも陥らなかったことだ。
『水の反映』についで、前奏曲をメドレーで弾いていく。
『展覧会の絵』の連作を終えた伊砂は、『前奏曲集』全二十四曲に想を得て制作にかかった。徹底的に作品を聞き込み、あくまでも個人的な聴体験を、一枚型というきびしい制約のもとでリズムとフォルムに還元する。音楽の背景を知り、テキストを身の内にとりこんでいる私は、伊砂の仕事がタイトルの逐語訳ではないにもかかわらず、作品から立ちのぼるものが音楽とまったく違和感がないことに驚く。
たとえば、一巻の第二曲「帆」。バスの反復に乗って三度の間隔で動く全音音階のリボンは、ヨットの帆ともサロメのヴェールとも言われる。伊砂の「ヴェール(帆)」は、わずかにずらされた三角形のモティーフの濃淡と、五本の線のゆらめきによって、規則性と即興性を合一に導く。
ブルターニュの伝説にもとづく「沈める寺」では、地の微妙なぼかしとオシログラフのように震動する鋭角的な線が、「霧」では、あるかなきかのかすかなゆらぎが、ドビュッシー特有のうちふるえる音響語法を視覚化する。河津七滝の「動」のイメージとはまた違った「静」の中の「動」が、ドビュッシー音楽との親和性を強く印象づける。
そして、いたずら好きなウンディーネを描いた「水の精」。伊砂作品では、ひとつひとつの水の分子が微妙に濃淡を変えて、角度も変えて、規則的なような規則的ではないような感じでふわふわ浮きながら、長四角の中におさまっている。これから河津七滝になりたいと虎視眈々とねらっている水たちかもしれない。
最後は、「亜麻色の髪の乙女」を弾いた。短い曲だが、ペダリングは決して単純ではない。右手一本で弾く旋律の前にペダルを踏んでおく。タッチした瞬間、少し指をはなし、また沈める。こうすると、音がすっとのびる。バスをペダルでのばしたまま内声を弾き、すぐに戻ってバスを無音でおさえなおし、ペダルを少しずつひきあげる。バスを残し、上声の濁りだけをとるペダリング。
ひとつひとつは「アルチザナ」の作業だが、全体を統括しているのは「アルチスト」の欲望である。伊砂は画家たちからよく、お前には型紙があるから楽だろうと言われるという。しかし、制作の秘密は型染の工程にあるのではない。想念を型紙にデッサンした瞬間、そしてそれに切り込みを入れていく瞬間。しばしば手がまったく新しい方向に向かい、あらかじめ記された線を裏切る。ちょうど、小説の主人公が作家の想定しない方向に歩き出すように。
リハーサルを終えた私は、展覧会場をひとめぐりした。ドビュッシー『前奏曲集』の部屋をはさむようにして、「水の部屋」と「火の部屋」がある。『河津七滝』や『奥入瀬』が並ぶ「水の部屋」に対して、「火の部屋」には、スクリャービンのピアノ曲『焔に向かって』や長唄の『娘道成寺』にインスピレートされた作品が展示されている。
火には三つの様相がある、と伊砂は言う。燃えはじめはさわやかな炎、燃えさかる神々しい炎、それをすぎたころから赤い色が強くなり、妖艶な炎になる。人を誘う炎。
部屋にはいったとたん、思わずくらくらした。「怨(うらみ うらみて)」の炎が渦を巻き、激しく吹き上げていた。真っ赤な炎がパネルを突き抜けてこちらに向かってくる。そのうねり具合が、ゴッホの糸杉を連想させた。