マンタロー
中学の二年と三年のときの担任は国語の教師で、本名の政太郎をもじってマンタローと呼ばれていた。中学生が、クボマンこと久保田万太郎を知っていた時代である。
ある教育系の国立大附属だったその中学は妙な学校で、陸軍士官学校出の体育教師と、海軍官学校出の英語教師が牛耳っていた。体育の教師は「命令を掌握しろ」とか「若干名前へ出ろ」とかグンタイ用語を使って授業をした。戦後十七年はたっていたわけだから、どう考えても変だった。
「ジスイズ」というあだ名の英語の教師もまた変だった。授業に笞をもってあらわれ、質問に答えられない生徒がいると容赦なく叩く。今だったら暴力教師として訴えられていたにちがいない。
もっとも、一学生三クラスの同期から三人も英米文学翻訳家が出ているのだから、「ジスイズ」の特訓もそれなりに効果はあったのだろう。
私の場合はピアノで音大の附属高校をめざしているという特殊事情があり、なおさら居心地がよろしくなかった。グンタイ教師たちにとって「歌舞音曲」は「軟弱のきわみ」だったし、実際問題として、レッスンやコンクールなどで学校を早退したりサボったりすることも多く、一年生の学年末には親が呼びつけられてさんざんしぼられていた。
しぼられた理由は出席率だけではなかろう。一年生のときの私は自我まるだしで、周囲からも奇異の目でみられていたようだ。(授業中に本を読んでいてとがめられると、「一秒前までは読んでいたかもしれないが、今は読んでいない」と言い張るなど)。
生物の教師は母に、「あなたのお子さんは将来間違いなく精神病院ゆきだ」と保証してくださったとか(ときどきビルのてっぺんから飛び下りたくなるほかは、とくにその症状はない)。
困っていたところにマンタローが担任になり、救われた。
ファッショの嵐が吹きまくる学校で、昔ふうの文学青年の雰囲気を漂わせるマンタローのまわりだけ、時間がゆっくり流れているような気がした。
あるとき、マンタローが牡蠣の話をしたことがある。カキフライは好きだが、酢ガキはキライだという。
「だって、痰壺の中のタンみたいでしょう?」
それから長い間、私は酢ガキが食べられなかった。
マンタローは、生徒の読書をとくに推奨もしなかったし、当時は推薦図書などという読書のおしつけもなかったが、子供たちが競って本を読むような風潮がまだ残っていた。
世界文学全集は図書室の一番目立つところにずらりと並んでいて、プルースト『花咲く乙女たち』とかロマン・ロラン『魅せられたる魂』とか、読まなかったけれど、タイトルだけは鮮烈におぼえている。
友達がドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読破したときくと、カラマーゾフはちょっと無理だけど、『罪と罰』ぐらいは読まなきゃー-という雰囲気があった。ヘッセの『デミアン』に入れ込んでいる女の子もいたし、サルトルの『嘔吐』を読破した男の子もいる。固い本ばかりではなく、ホームズものやルパンもの、江戸川乱歩などミステリーも大人気だった。
卒業するとき、マンタローの編集で文集をつくることになった。原稿用紙を渡されたが、こんなクソ学校について何も書くことはない、と提出しなかった。卒業後、ガリ版刷りの文集が送られてきて、ぱらぱらめくっていたら、私の文章が載っているではないか!
でもなぜ?
どうやらそれは、二年生のとき国語の授業で書いた作文、つまり、マンタローに提出した原稿だったらしい。友達と遊びでつくった同人誌モドキについて書いている。しかも、出だしを勝手にチョン切り、「前略」すら書いていないので、事情を知らない向きには何のことやらわけがわからないだろう。誤植もある。
アンチキショー、勝手に載せやがって・・・と、最初はちょっと腹が立ったが、今読み返すと、よくぞ掲載してくれたよ、と思う。というのは、その、ちょっとせかせかして独断と偏見に満ち、いまにもすっころびそうなリズム感は、モノ書きになった私の文体そのままなのである。
在学していたころは一日でも早く出たい、と思っていた学校だが、こうしてみると、仲間といい先生といい図書室といい、豊かな環境から知らず知らずのうちに恩恵を受けていたのかもしれない。