「ヤマハホールの覗き窓」(銀座百点 2006年10月号)

私たち音楽家が銀座に行くといったら、目的地はたいてい銀座ヤマハ店である。楽譜、音楽書、音楽雑誌、五線紙、メトロノーム、CD、楽器・・・。みんなここでそろう。

レッスン室の楽譜棚に並んでいる楽譜の裏表紙には、音叉を三本束ねたヤマハのマークのシールがはってある。今でこそバーコード方式になったが、昔はこれが値段表がわりだった。ショパンの『前奏曲集』(パデレフスキー版)は六〇〇円、モーツァルトの『協奏曲ハ短調』(ペータース版)は四四〇円。安かったんだなあ。

私の家は阿佐ヶ谷だから、ヤマハに行くためには地下鉄に乗る。南阿佐ヶ谷から丸の内線に乗り、赤坂見附で目の前の銀座線に乗り換え、銀座駅で降りる。丸の内線にそのまま乗っていても銀座駅に着くが、それは有楽町のほうの銀座で、ヤマハからは遠いのだ。

四丁目交差点の松阪屋方面出口から出て、銀座通りを新橋方面にまっすぐ歩く。靴好きの私にとっては、右手に涎の垂れそうな店が並んでいる。ワシントン、ダイアナ、ヨシノヤ、カネマツ。でも、寄り道しない。とにかくわき目もふらずヤマハに直行する。

もっと急いでいるときは、銀座線の新橋駅で降りる。1番の出口を出て橋をわたり、銀座の柳をちらっと眺め、天麩羅の「天國」や時計・宝石の「日進堂」をすぎると、薄紫色に白抜きの「YAMAHA」という細長い看板がみえてくる。

お店についたら、とりあえず地下の楽譜売り場に降りる。壁の四方はすべて楽譜棚で、日本版、輸入版とそれぞれABC順に並べられている。さしあたって探している楽譜のほかにもいろいろな作曲家のいろいろな作品があるので、どこまで買うか、ちょっと迷う。

いずれ勉強しなければならないと思う曲は沢山ある。同じ曲の楽譜でも、各種の版があり、本当は全部を参照しなければならないのだが、まさか全部買うわけにもいかない。

生徒を教えはじめてからは、各レベルに合わせた教材がここに加わり、ますます選択肢が増えてしまった。私が子供のころはバイエルとメトードローズぐらいしかなかったのだが、このごろでは、導入教材だけでもさまざまな種類がある。生徒の顔を思い浮かべつつあれこれ物色しながら、無力感のような、強迫観念のような、奇妙な感情に襲われる。

二階にはピアノ売り場とショールームがある。現在、自宅にはスタンウェイのB型とヤマハのC7型を置いているが、そのうちヤマハはここで購入したものだ。生徒さんの練習ピアノを選定するためにショールームを訪れた際、展示用のピアノを弾いたらとても気に入ってしまったのだ。このピアノは、今も冴えた音色を奏でてくれる。

レクチャー・コンサートの講師としてピアノ売り場に行くこともある。奥に百名ほどを収容できる会場ががあり、ヤマハ音楽教室の先生たちを中心に定期的に勉強会が開かれている。私はフランス音楽が専門なので、「ドビュッシーをおしゃれに弾くために」などというテーマで、ピアノでいろいろな例を示しながらおしゃべりする。

CD売り場は一階で、銀座通りに面しているので開放的な雰囲気だ。自分のCDがリリースされるようになってからは、発売時期にあわせてイベントスペースでミニコンサートを開いてもらう。銀座通りが歩行者天国になる土・日の午後をねらって開催するのだが、クラシック・ポピュラー共通のスペースなので、スケジュール調整が大変だという。

当日はお店のほうで簡単なチラシをつくり、歩行者天国で配っている。宣伝効果は抜群で、開始時刻には黒山の人だかりになる。子供たちもたくさん。イベントは三十分ぐらいで、ニュー・アルバムから何曲かを弾き、曲にまつわるエピソードをトークで入れる。

円形の仮設ステージには小型のグランドピアノが置かれているが、ちょっと力を入れてペダルを踏むと足もとがぐらぐらする。CD売り場は通常どおりの営業なので、ときどきチンジャラジャラジャラーというレジの音がきこえる。二階のピアノ売り場に来ているお客さまも踊り場から聴いて下さり、ちょっとしたオペラハウス状態になる。

終わったあとはサイン会が開かれる。私は本も何冊が出しているので、そちらを買って下さるお客さまもいる。実を言うと、インストア・イベントではCDはあまり売れない。でも、いいんです、とレコード会社の営業さんは言う。インストアをすることによって、お店がそのCDを積極的に宣伝してくれる。目につくよい場所に置いてくれる。その場でどれだけ出るかより、そっちの刷り込みのほうが大事なんです。

最上階の四階・五階はヤマハホールである。一九五三年に創設された本格的な音楽ホールだ。小・中学校の学生コンクールでは、予選・本選会ともこのホールで開かれた。招集時刻に会場に行くと、ロビーは受験生たちであふれている。女の子たちは判で押したようにレースの靴下にエナメルの靴、リボンで結んだ髪。手袋をはめてベンジンの匂いがプンプンする白金カイロをにぎりしめている。ピアノは手が冷たいと弾けないからだ。当時は、ホッカイロなどという便利なものはなかった。

出番を待つ間、扉に四角く穿たれた窓の蓋をあけ、ホール内の様子を覗いてみる。扉の外から眺めると、どの受験生も自信たっぷりに、完璧に弾いているようにみえた。弾き終えた子供がロビーに出てくる。頬を上気させ、「んもー、たくさんはずしちゃった」などとお母さんに話している。

あの子たちは、今どうしているのだろう。何人かはプロのピアニストになった。何人かはピアノの先生になった。

今でも、銀座というとヤマハホールを思い出し、ヤマハホールというと、扉の小さな覗き窓を思いだす。

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