【書評】ジェレミー・マーサー著「シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々」(北海道新聞 2010年6月27日朝刊)

ヘミングウェイ『移動祝祭日』には、シルビア・ビーチの「シェイクスピア書店」のことが出てくる。失われた世代が集った伝説の書店だ。一九四一年に閉店したが、十年後に新しい書店が開店し、ヘンリー・ミラーやアナイス・ニンが頻繁に出入りした。本書の舞台は、こちらの「シェイクスピア&カンパニー書店」である。

店主のジョージ・ホイットマンは八十六歳。ビーチの精神を受け継ぎ、半世紀にわたって書店を経営してきた。この店は「流れ者ホテル」も兼ね、本棚の間にベッドが何台も置かれ、貧しい作家を無料で泊め、食事を提供する。いわば社会主義的ユートピアである。

寄宿の条件はただ二つ。簡単な自伝を書くこと。一日に一冊は図書室の本を読むこと。小説を書きたい者には書斎も提供される。プロの作家も何人も巣立っていた。

著者のジェレミー・マーサーはカナダの元新聞記者で、犯罪者がらみで危険な事態に陥り、二〇〇〇年初頭にパリに出てきて数カ月にわたって書店に住み込んだ。

実録なのに小説のように面白い本書は、身銭を切ってひたすら読むこと、書くことを奨励する奇人ホイットマンの伝記とも、書店にたむろする個性豊かな文学者や来客たちの群像としても読むことができる。中でもルーマニアの詩人ナディアは鮮やかな印象を残す。

驚くのは、これがたった十年前の話だということだ。本離れが進む日本とは何という違いか。一九二〇年代の狂騒が、ここではまだ生きている。店内やセーヌ河岸で開かれる朗読会のシーンは、貴族のサロンや文学カフェで脈々と受け継がれてきた伝統だろう。

かつて貧乏留学生だった私は、本書で紹介される節約術がなつかしかった。モラトリアムの美しさと切なさを活き活きと描いた好著である。

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