エリック・フェンビー著、小町碧訳、向井大策監修
(アルテスパブリッシング・2400円+税)
評・青柳いづみこ
傑作曲生み出した共同作業
口述筆記で書く作家は案外多いらしい。ドストエフスキーの2度目の妻アンナは速記者で、『罪と罰』『賭博者』を口述筆記で完成させた。
しかし、作曲となると…。とくに管弦楽曲の場合、何段もの五線譜に各楽器の旋律を書き取るのは至難の業だ。
本書の著書、エリック・フェンビー(1906〜97年)は全盲と全身まひに襲われたイギリスの作曲家、ディーリアス(1862〜1934年)の晩年の助手として、6年間に11曲もの作品を完成させた。とりわけ管弦楽のための『夏の歌』は2人の共同作業が生み出した傑作である。
その作品をタイトルにもつ本書はフェンビーの回想録で、1968年にケン・ラッセルが映像化し、感動を呼んだ。
独学で音楽を学んだフェンビーは新聞で大作曲家の窮状を知り、手助けを申し出る。パリ近郊の村・グレーに着いた22歳の若者が見た作曲家は恐ろしい状態だった。硬直して椅子に座り、握手のため腕を伸ばすことも困難で、ときおり動かせない両足が耐えがたい痛みに襲われる。作曲の作業は困難を極めた。
絶え間なく沸き起こる楽想を、そのスピードで書き取ることができない。しかし慣れるにつれ、フェンビーは不思議な能力を発揮しはじめる。なんと、作曲家の発想を先取りしてしまうのだ。〈あるパッセージを可能なかぎりすばやく書き取っていると、閃光のように、あるフレーズが頭に浮かぶ〉と彼は書く。〈そして、その楽句をディーリアスが口述しはじめるのを聞いてびっくりするのである〉。
『夏の歌』の詳細な制作過程が譜例つきで示される章もあり、音楽に携わる者には示唆に富む内容となっている。
特筆すべきはフェンビーが決して従属的な存在ではなかったことだ。無神論者でニーチェを愛するディーリアスに対して、彼は敬虔なクリスチャンだった。音楽に対する好みも合わない。しかし、ことディーリアス作品について彼らは完全に一致した。書き取ったものをピアノで弾くと、ディーリアスは常に喜んだ。
創造の限りない神秘がここにある。