生き残ったことを責め続けた「戦場のピアニスト」のその後
映画「戦場のピアニスト」で記憶に新しいウワディスワフ・シュピルマンのその後を、長男の目から描いた作品である。ポーランド音楽界の重鎮として恵まれた後半生を送ったシュピルマンは、二〇〇〇年七月に八十八歳で亡くなり、国葬のような形で葬られた。といっても、十八歳でポーランドを飛び出し、イギリスやアメリカで学んだのちに歴史学者として日本で教鞭をとっていた著者は、それほど父親と身近に接していたわけではない。本書はだから、偉大すぎる父を持った息子の自立の道ゆきでもあり、その父親の回想記が、書かれてから半世紀以上もたって映画化され、世界的にヒットしてしまったことへのとまどいと咀嚼の過程を綴った書でもある。
戦後ワルシャワ国営放送局に復帰したシュピルマンは、一九四六年に映画の原作となる「ある都市の死」を出版したあと医学生の女性と出会い、五〇年に結婚した。翌年には長男クリストファーが、五六年には次男のアンジェイが生まれている。「ある都市の死」をドイツの出版社に紹介したのは次男の方である。弟は父を崇拝していた、とクリストファーは語る。「父の名の下で生きているというようなところがあったようにも思える」。
クリストファーは、父親の七光はごめんだった。音楽ひとつとっても、自分は楽しければ下手でもいいと思ったが、父親は、遊び半分で弾くことを許さない。勉強しながら音楽をきいていると、冒涜だ、と怒られた。大好きなビートルズは、「ごみみたいな音楽だ」と評価しない。父親は息子の目に、前時代的な頑固おやじとして映っていた。
そんな兄弟が、申しあわせたように十二歳の年、屋根裏に隠されていた「ある都市の死」を読んだというのは面白い。クリストファーには、それまで謎だった父の行動の意味が初めてわかった。父は、長男がけがをしたり病気したりするのを極度に恐れた。ナチスに一族を奪われた彼は、もうこれ以上家族を失いたくなかったのだ。
タイトルのもとになった「時計」も、そうしたエピソードのひとつとして描かれる。経済的に恵まれていたにもかかわらず、シュピルマンは必要以上にものを買い込んだ。とくに時計には異常にこだわった。ベッドのまわりにはめざまし時計が兵隊のように並んでいた。腕時計も、両腕に時計の鎧ができるほど持っていた。映画を見た人なら、主人公が時計をだましとられたシーンを思い浮かべるだろう。
九二年に父親からスイス・iwcの腕時計を贈られたクリストファーは、こんな推測をする。シュピルマンは、戦争で彼自身の時間を失った。それが時計への執着としてあらわれているとしたら、その中で一番大切な時計を息子に譲ったということは、彼が自分の人生を取り戻したことの証ではないか、と。
面白いのは、映画の日本語版字幕への指摘である。シュピルマンがホーゼンフェルト大尉にピアノを弾いてきかせるシーン、ポランスキー監督は二人にドイツ語で会話させている。ドイツ語の二人称には「きみ」と「あなた」の二種類あるが、ドイツ人将校がユダヤ人のシュピルマンに敬語で話しかけているのだ。この大尉はナチスの人間ではなくドイツ国軍の将校で、ユダヤ人の救出に奔走した一人だった。日本語字幕ではそのあたりのニュアンスが消えてしまったことをクリストファーは残念がる。本書では、シュピルマンが大尉の夫人の手紙によって彼の消息を知り、助命嘆願した事実についてもふれられている。
父が死の床についたとき、クリストファーは福岡にいた。最後の電話で、「水分を十分にとるように」とすすめた息子に対して、シュピルマンはこう答えている。「水を、水をといいながら、一滴の水も飲めないで苦しんで逝った人のことを思うと、水を飲むのもつらいんだよ」。彼は、最後まで同胞を悼み、生き残った自分を責めていた。
映画が公開されたのは、その二年後である。クリスファーは、映画を見た人々から、生き残った父親がどんな人生を送ったのか、幸せに過ごしたのか、ときかれて即答できなかった。本書は、その問いに対するひとつの回答である。映画を見て感動した人々は、戦争が一人の男の心に残した後遺症のすさまじさを知り、言葉を失うことだろう。