【解説】小川洋子 著「やさしい訴え」(文春文庫 2004年10月刊行)

楽器としての女性

ジャン=フィリップ・ラモーはルイ十四世、十五世に仕えた宮廷作曲家である。バレエ・オペラ『優雅なインド』など規模の大きな作品が多い。彼のチェンバロ曲『やさしい訴え』は、ドラマティックな作風のラモーにしては珍しく、しっとりした小品だ。

私はチェンバロは弾けないから、ピアノで弾く。
二短調。ゆるやかな四分の三拍子。アラベスクのような装飾音がメロディをふちどる。くるりくるり装飾音を描いている間に、気持ちがどんどん深く降りていく。行間にこめたやさしさ。秘めたる訴え。

チェンバロはピアノの前身だが、機構がまるで違う。ピアノのようにハンマーで弦を叩くのではなく、鳥の羽根でひっかく。だから、音がつづかない。装飾音はメロディを少しでも長くつづかせるために工夫してつけられている。トリル、ターン、モルデント、アルペジオ。

音も小さい。フォルテ、ピアノもつかない。リストの曲のようなオクターヴの連続もない。タッチはとても軽やか。とても敏感。少しでも乱暴に扱うと、楽器に嫌われる。

いきおい、表現はとても繊細に、内にこもったものになる。とにかく、「世界の中心で愛を叫ぶ」風にはならない。沈黙のうちのまなざし、ちょっとした気配。ふいにきざす欲情。そんなものを丁寧にすくいあげていく。
 
チェンバロを弾く人も、とても繊細で傷つきやすい。だって、発散しないんですもの。もしかして、製作する人もそうなんじゃないかな。この作品を読んで、そう思った。

夫と別居した瑠璃子は、移り住んだ山の別荘近くで、新田というチェンバロを製作する男に会う。新田氏は、元はピアニストだった。華やかなデビューをしたが、自分の他に人が一人でも聴いていると、もうピアノが弾けなくなったという。私の研究する作曲家ドビュッシーもそうだった。二人以上聴衆がいると、とたんに指が動かなくなる。ミス・タッチする。だから、作曲家になった。指が動かなくなるピアニストは、完璧病なのだ。完璧を期することがプレッシャーになる。

新田氏は、チェンバロ制作者になっても完璧主義だった。だから、音大に搬入したチェンバロに不具合が生ずると、それを叩き壊してしまう。このシーンを読んだとき、私は、まるで自分が叩き壊されたような衝撃を受けた。

チェンバロを叩き壊したあと、新田氏はスパイスラックを作った。スパイスラックといえど、ばかにはできない、と彼は瑠璃子に言う。ラックはラックとしての、正確さと美しさを要求してくる。どんなささいなものにも、その存在を支える絶対的な形がある。天から許された、存在の形。自分はそれを忠実になぞってゆくしかない。

新田氏はやはり演奏家なのだ、と思う。「音楽」という、目に見えない絶対的な形を「楽譜」というテキストを頼りになぞっていく作業。

「でも時々、その形が見えなくなる。輪郭がぼやけて、手がかりが消えて、不安に陥る。迷いを持たない形のはずなのに、どうやってもそれをなぞれない。どこかがはみ出していたり、かすれていたり、うまくなじんでぐれなかったりするんです」

新田氏は見事にピアノを弾きこなし、チェンバロも見事に弾きこなすはずなのに、他人には聞かせない。ただ一人、彼に寄り添って助手をつとめる薫さんだけには、弾いてきかせる。

新田氏に惹かれる瑠璃子は、嫉妬する。嫉妬するけれど、二人の間にはどうしてもはいっていけない。
一度だけ、言ってみたことがある。「チェンバロを、弾いてくれませんか」「聴きたいんです。わたしのためだけに、あなたがチェンバロを弾いてくれるのを・・・」

新田氏はチェンバロを弾かないが、瑠璃子を抱く。それも、とても優しく。彼の手は彼女のあらゆるすき間、くぼみ、突起、曲線をはいまわる。
──そして、ドビュッシーは言うのだ。勿論、一人の女性は楽器ではありません。

瑠璃子は、チェンバロのかわりに新田氏に奏でられながら、薫さんのことばかり考えている。二人もまた、これと同じことをするのではないか。薫さんが演奏旅行から帰ってきた夜、瑠璃子は新田氏の工房の窓ごしに、薫さんのために『やさしい訴え』を弾く新田氏を見てしまう。

「わたしにはまるで二人が抱き合っているかのように見えた。わたしと新田氏が肉体を結びつけた場所とは遠く離れたところで、もっと深い至福に浸っていた。彼らには肉体の快楽など必要ないのだ。そのことを、残酷にもわたしは一瞬のうちに知らされてしまった。彼らだけの営みの場所に紛れ込んでしまった自分を、哀れに思った」
瑠璃子はもう、薫さんに嫉妬しているのかチェンバロに嫉妬しているか、それとも音楽そのものに嫉妬しているのか、わからなくなった。

音楽は、メイクラヴと変わりませんね。それは、言葉を超えたところから始まるからです。二人を隔てる粘膜や皮膚がないぶん、もっと魂と魂が合体しますね。

でも瑠璃子は、新田氏が薫さんだけにはこっそりチェンバロを弾いてきかせる、本当の理由を知らない。想像もつかない。何故なら、彼女が音楽家ではないから。そこのところが、この作品の、一番のキモになっている。

理由は、新田氏にもうまく説明できない。「唯一彼女だけが、僕の演奏を許す」という言い方をする。その人がいるだけで、すっと心を開く気持ちになる。そうすると、気持ちが音になって指先をつたって流れていく。せき止められていたものが溢れて、この先いくらでも弾きつづけられるような気がする。『やさしい訴え』は、そんな気持ちの流れにメロディと装飾音と和声を与えたような曲だ。

「二人が胸に抱える沼はとても深いのだ。底からわき上がってくる間に言葉たちはみな意味など失い、ただ美しい響きだけが残る」

瑠璃子は新田氏にとって楽器だった。でも、薫さんは音楽そのものだ。勝てるわけがない。
 
最後がステキ。新田氏はフレミッシュという型の、すばらしくきれいなチェンバロを完成させ、薫さんはお祝いのパーティに瑠璃子を誘う。テーブルには沢山ご馳走が並べられていて、薫さんが三曲弾き終わるごとに二種類ずつ食べていく。クープラン『葦』『優しい恋わずらい』『小さな風車』のときは生ハムとメロン。デュフリの『メヌエット ハ短調』『デュ・ビュック』『アルマンド』のときはローストビーフと海老のカクテル。

カリグラフィーの専門家の瑠璃子さんは、新しいチェンバロの鍵盤の奥に自分のデザインした「Y・NITTA」という文字を刻んだのだ。それが、彼女なりの新田氏との合奏だった。音楽への参加だった。

葦は風にそよぎ、風車は軽やかに回る。瑠璃子は、最後に『やさしい訴え』をリクエストした。

2004年10月17日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top