【連載】「音楽家の愉しみ 第3回 十三(じゆうそう)の夜」(音遊人2023年秋号 )

 仕事柄、大阪に行くことが多い。年に一度は阪大会館のコンサートに出演するし、大阪音大は定年退職したものの、神戸女学院の講師はまだ残っているし、芸術監督をつとめる兵庫県養父市(やぶし)に行くための拠点のひとつでもある。
 泊まりは必ず阪急宝塚線の十三。
 淀川をはさんで、梅田の対岸に位置する十三は、ネットで検索すると「大阪の下町、歓楽街」と出てくる。クラシック関係者にはびっくりされるのだが、神戸女学院に行く阪急神戸線や大阪音大に行く阪急宝塚線、茨木市、高槻市など沿線にコンサートホールがある阪急京都線の乗り換え駅で、物価が安く、食べ物が美味しい。
 二〇一四年三月に西口の飲食店街「しょんべん横丁」から火事が出て、四十店舗近くが全焼するという惨事があった。戦後の闇市の名残で店舗が密集しており、あっという間に燃え広がったらしい。二年半かけて再建され、道幅は広くなったものの、相変わらずディープな匂いをプンプンさせている。 玉乃家という大衆居酒屋は、その「しょんべん横丁」を左に行ったあたりで、角地にのれんを掲げている。
 二〇二二年五月、大阪公演のために前日入りしたとき、リハーサルの
後で共演者の指揮者・ピアニスト田部井剛さんとお邪魔した。
 女将さんのご主人の親御さんの代から四十四年も続けてきたというお店は、地元のお客さんで賑わっている。この日は阪神が勝ったので、特別にシャンパンの差し入れ。グラスがないのでおちょこで乾杯。
 女将さんとおしゃべりしているうちに、お互いの母方の郷里がとても近いことがわかった。女将さんの郷里は兵庫県養父市九鹿ということで、この地名を「くろく」と読める人はまずいない(ちなみに私の母方は養父市八鹿出身で、こちらも「ようか」と読める人はまずいない)。女将さんはすっかり興奮してしまい、「飲みねえ、食いねえ」とばかりに、カウンターに菊正宗の一升瓶と豪華な金目鯛の酒蒸しがどんと出てきた。
 十三筋と国道一七六号線の交差点付近の路地にたたずむ「ゆきや」も、名物居酒屋のひとつだ。
 ここに行ったのは、二〇二三年六月のこと。秋に大阪大学主催で演奏つき講演会が予定されており、その打ち合わせを兼ねての飲み会が開かれた。「人間は考える葦である」と言ったのはフランスの哲学者パスカルだが、そのパスカルの専門家の仏文科教授の方と、紹介してくださった阪大名誉教授で生物科学の先生と三人で落ち合った。
 お酒自慢の店で、入口前にも店内の棚にも日本酒や焼酎の一升瓶がずらりと並ぶ。瓶を選んで注文するシステムなのだが、そこまで銘柄に精通していないので、女将さんにアドバイスしてもらう。
 料理のほうは、壁一面にメニューが貼られている。牛すじとこんにゃくのゴロ煮、ナスの素揚げ、ごぼうスティック、地鶏のタタキ、ゴーヤの天ぷら、イカ墨スパゲッティ。
 名物の納豆焼きには、お好み焼きのように青海苔とマヨネーズがかけられている。万願寺とうがらしの素焼きは、人数ぶんの三本。どれか幸いのに当たるかも……と言われてドキドキしながらいただいたが、誰も当たらなかった模様。
 仏文科教授と共通のお知り合いということでボードレール研究家の講師の方にメールを打ったところ、たまたま近くで飲んでいらっしゃるとのことで急遽合流。
 パスカルとボードレールとドビュッシーの専門家が十三の飲み屋で一堂に会するのは、なかなか風情があった。

2023年12月6日 の記事一覧>>

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