名曲に日本の影響はあったか
東京都杉並区荻窪の閑静な住宅街の一角に、大田黒公園がある。イチョウ並木を進むと庭園が現れ、右手に洋風の記念館が立つ。音楽評論の草分け、大田黒元雄(1893〜1979)の旧宅だ。昭和に入って当地に移る前は、大田区大森山王に住んでいた。
「日本人ジャーナリストと日本料理店で昼食をとった。(略)大田黒先生はロシア音楽にきわめて精通しており、私たちは食事の間じゅう話に花を咲かせた。食事は膝(ひざ)を曲げて座る日本式。芸者衆が踊り、客ひとりにつき若くてきれいな日本女性ふたりがそばに座った。とても楽しかった」(プロコフィエフ日記、1918年7月2日)
25歳の大田黒は、その数年前、英国留学し、音楽、演劇、舞踏を学んでいた。「当時の最先端の音楽を吸収して持ち帰った。とくに当時日本ではよく知られてなかった、ドビュッシーなどのフランス音楽、北欧、ロシア音楽を紹介した功績は大きい」と、ピアニストで文筆家の青柳いづみこさんは言う。
大森の自宅でサロンを開き、自ら演奏するピアノコンサートを催した。プロコフィエフは大田黒の家で自作やロシア現代音楽の楽譜を見て感激し、ピアノを弾き続けたという。大田黒公園の記念館に残るスタインウェイは、プロコフィエフも鍵盤をたたいたかもしれない。
奈良ホテルにも、いわくのあるピアノが残っている。「アインシュタインが弾いたピアノ」として知られる。20世紀初頭、ニューヨークで製造されたことがわかつている。
アルべルト・アインシュタインが来日したのは22(大正11)年。全国を回り、奈良にも立ち寄った。来日途上の船でノーベル賞受賞を知った天才物理学者は終始上機嫌で、奈良ホテルでは、ピアノの前に座った。アインシュタインはバイオリンが趣味で、ピアノもたしなんだ。
さかのぼること4年。同じホテルに滞在したプロコフィエフも、このピアノを弾いたのではないかと推測したくなる。だが、奈良を出発する日の彼の日記には「もう2カ月もピアノを弾いていない」。大田黒との出会いは、その後のことだ。ピアノはプロコフィエフが去った後、ロビーに置かれたのだろうか。
プロコフィエフ日本滞在で、謎がもうひとつある。彼の代表作のひとつで20世紀音楽の傑作とされるピアノ協奏曲3番終楽章のテーマが、日本の俗謡「越後獅子」からとられた、という説があるのだ。このテーマは、確かに跳びはねるような、東洋的な音型だ。「作曲者が日本滞在中に聴いた長唄《越後獅子》の音楽からヒントを得ているといわれるもの」(『作曲家別名曲解説ライブラリー(社)プロコフィエフ』)。日本の音楽解説書には同じような記述が散見する。
だが、自伝や日記には、一切そうした記述は残っていない。
沼辺信一さんがかつてプロコフィエフ財団(ロンドン=当時)の専門家に尋ねると、「ありえない」と直ちに否定されたそうだ。青柳いづみこさんも「自作以外のメロディーを引用するタイプの作曲家ではない。考えにくい」と話す。ただ、「芸者遊びをしているので、座敷で『越後獅子』を聞き、耳に残っていた可能性はありますが」。
ならば、だれが言いだしたのだろう。最も親しかった大田黒の著作にはその手の記述は見つからない。音楽史研究家の戸ノ下達也さんが、「野村光一ではないですか」と教えてくれた。
音楽評論家の故野村光一は大田黒サロンの一員で、プロコフィエフにも会ったという。著書『レコードに聴くピアノ音楽』(53年)にそのくだりはあった。「(この曲は)日本を経てアメリカへ渡る途中作曲したもので、珍しくその最終楽章に本邦滞在中耳にした『越後獅子』の旋律の一節が主題材料の一つとして扱はれている」。断定調だが、根拠は示されていない。
この記述が一人歩きし、国内で広まったと考えることに無理はあるまい。日本の旋律が世界的傑作に採り入れられたというのは、なんと言っても「日本人の琴線にふれる」(沼辺さん)からだ。
プロコフィエフは8月2日、横浜からアメリカへ旅立つ。前日、大田黒邸に別れのあいさつに来て、自作のピアノソナタ4番を弾き、名残を惜しんだ。大田黒は埠頭(ふとう)まで見送りに行った。
3年後、洋行した大田黒はロンドンで、本人自身が弾くピアノ協奏曲3番のイギリス初演を聞き、数日後ホテルを訪ねたが、すでに出発したあとだった。23(大正12)年9月、関東大震災が起きると、プロコフィエフから丁重な見舞いの手紙が届いた。しかし二人の歩む道は、もう交わることはなかった。
【写真説明】奈良ホテルの1階ロビーにある「アインシュタインのピアノ」。ピアノの上にはアインシュタインが演奏する写真が飾られる。