【文化講座】「文豪島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー 講演要旨」(交詢雑誌 2015年2月号)

文豪島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー(青柳)

公開講座講演(事業委員会関係事業)
「文化講座」(平成二十六年度−第二回−)
文豪島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー

(講演とピアノ演奏) 青柳いづみこ (ピアニスト・文筆家)

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〔挨拶〕 炭谷常務理事  皆様、こんにちは。本日もまた御多忙の中、交詞社文化講座にお越しいただきまして誠にありがとうございます。

この文化講座もきょうで三十一回目でございますが、その間中央区の区民の方、お勤めの方、あるいは銀座の各町会の方々にお声をおかけしまして、お陰さまで順調に回を重ねてくることができております。本当にご協力ありがとうございます。

本日は、ちょっと趣向を変えましてここにピアノを置きましてピアノ演奏付きの講演会とさせていただきます。ご講演いただきますのは青柳いづみこ先生でいらっしゃいます。きょうの演題は『文豪島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー』という題でご講演をいただきます。

ご講演に先立ちまして先生のご経歴等を若干ご説明をさせていただきたいと思います。

青柳先生はピアノを安川加壽子さん、ピエール・バルビゼ氏に師事されましてマルセイユ音楽院を首席で卒業されました。その後東京芸術大学大学院博士課程を修了され学術博士号を取得されていらっしゃいます。演奏と執筆を両立される大変希有な存在として活躍をされていらっしゃいまして、演奏ではこれまでリリースされた九枚のCDが『レコード芸術』誌で特選盤となるほかご著書でも師安川加壽子さんの評伝『翼の生えた指』で吉田秀和賞、お祖父様の評伝『青柳瑞穂の生涯』で日本エッセイストクラブ賞、『六本指のゴルトベルク』で講談社エッセイ賞など数多くの賞を受賞してこられておられます。また現在は日本ショパン協会の理事でいらっしゃるとともに大阪音楽大学の教授、神戸女学院大学講師もお務めでいらっしゃいます。以上ご紹介でございます。それでは早速青柳先生にご登壇いただきたいと思います。

〈講演〉

はじめに

皆様、ただいまご紹介にあずかりましたピアノの青柳と申します。きょうはとてもいいお天気で晴れやかな気持ちで集まっていただけたかと思います。しばらくの間ですがどうぞお付き合いくださいませ。

きょうは、『破戒』『夜明け前』『千曲川のスケッチ』など、すばらしい描写で知られる明治の文豪島崎藤村が何とパリに行って、私が研究するフランス近代の大作曲家クロード・ドビュッシーの自作自演コンサートを聴いたというお話をしたいと思います。

印象主義の大作曲家・クロード・ドビュッシー

まずドビュッシーのことをちょっとお話しします。

一八六二年に生まれまして一九一八年三月、第一次世界大戦のさなかに亡くなりました。一般的には印象主義の大作曲家と言われまして代表作は〈牧神の午後への前奏曲〉や交響詩〈海〉、それからコマーシャルなんかでよく流れるのは〈月の光〉〈亜麻色の髪の乙女〉などポピュラーなピアノ曲でも知られております。

どうして島崎藤村はパリに行くことになったのか

島崎藤村のほうは、一八七二年生まれといいますからドビュッシーより十歳年下です。亡くなったのは一九四三年です。藤村が一九一三年の四月に、当時は飛行機がありませんでしたので神戸からフランス船のエルネスト・シュモン号で出発しまして、あの頃はパリには直接行けないのでまず港町の南マルセイユに着くのです。ちょうど私が留学していましたのがマルセイユですので、とても懐かしいです。海辺にノートルダム・ド・ラ・キャルド寺院という船乗りを守護する大きな寺院がありまして、日本からはるばるやってきた船も一番先にそのノートルダムを見て、ああこれが異国の地かと、ヨーロッパに初めて足を踏み入れて感慨にふけるというふうに聴いたことがあります。

藤村は五月二十日にマルセイユに到着し、そこから北上します。途中に食通の天国で知られるリヨンという街がありまして、そこを経てパリに入るのです。今はマルセイユからパリというのはTGV(テージェーベー)で四時間もあれば着いてしまうのですが、その頃は本当に大変だったのだと思います。藤村はこのとき四十二歳で、以降三年ほど、一九一六年四月までパリで過ごすことになります。

それでは、どうして島崎藤村がパリに行くことになったのか。

三年前に交詞社午餐会で講演をさせていただきましたときは出席者の方が全員男性でして、今回もそうですかと事務局長の方に伺いましたら、きょうは半分以上女性とのことでほっと致しました。実は島崎藤村はとても女性に対してひどいことをした結果パリに逃げて行かなければならなかったので、私も女性ですから許せないと思うこともあるのですが、聴衆の方が全員男性ですとそれもあまり言いにくいかなと躊躇しておりました。

藤村は、ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、最初の奥さんとの問に七人の子供をもうけましたがそのうち三人は亡くなっています。昔はそうだったのですね。その奥さんが四人目のお嬢さんを出産したあとで病死なさいまして、乳飲み子をかかえた藤村にはどうしても家政婦がわりの方が必要なので、お兄さんのお嬢さん二人が住み込みで身の回りの世話をしていたわけです。やがて上のお姉さんは結婚して藤村宅を去り、妹さんのこま子さんだけが残ります。藤村からみると姪御さんに当たる方ですが、そのこま子さんと関係ができてしまいます。こま子さんの妊娠を知った藤村はスキャンダルを恐れてその事実を隠したまま、「留学」という名目でフランスに逃げていってしまうわけです。誠にひどい話でありませんか。

後に藤村はこま子との事件を『新生』という小説、これは『朝日新聞』に連載したものですが、その中で自分がモデルの主人公の口をかりて、「この旅の思立ちが、いかに兄を欺き、友を欺き、世をも欺く悲しい虚偽の行いであるかを思わずにいられなかった。(中略)出発も出来ることなら人にも知らせずに行こう。」と書いています。しかし実際には、藤村の洋行は文壇で大いに話題になります。『新生』が発表されるのは十八年のことですので、当時世間はまだスキャンダルのことを知らなかったのです。

流行だった文士の洋行

その頃文士の洋行はわりあいに流行していたそうですが、渡航先はイギリスが多く、フランスに行くのは珍しかったので、西園寺公望が便宜を図って在仏大使はじめ各方面に紹介状を書いたそうです。

その中で個人的に面白いエピソードがありました。私はドビュッシーを研究しておりますので、ドビュッシーが親しんでいた象徴派の詩人にも興味があります。象徴派の大詩人ボードレールの詩集『悪の華』は、同世代の詩人テオフィル・ゴーチェに献呈されています。そのテオフィル・ゴーチェの娘にジュデイット・ゴーチェという人がいまして、パリの文壇でもてはやされた才媛で、ワーグナーの晩年の恋人だったことでも知られている方でした。西園寺さんは、藤村がパリに行くに際してこのジュディットにも紹介状を書いております。

とにかく藤村は既に流行作家でしたので、当時は”汽笛一声新橋を”ですね、新橋から汽車が出まして、駅に田山花袋、正宗白鳥、徳田秋声はじめ何と百人もの著名人が集まって見送ったそうです。すごいですね、今だったら考えられないです。

この頃の友情って面白いと思ったのですけれど、田山花袋などは見送るだけではなくて一緒に電車に乗って鎌倉まで同行し、そこからまた箱根の温泉宿に一泊して別れを惜しんだそうです。さらに電車に乗って神戸に行き、船が出るまで二週間ぐらい逗留するのですから、気の長い話です。今、二週間といったらヨーロッパに行って戻ってきてしまいますね。とにかく悠長な話で、神戸の宿にはフランス生活が長かった有島生馬がわざわざ東京からやってきて、洋行生活についていろいろアドバイスを授けたそうです。

藤村は洋行に当たりまして、どうしてもお金が要るわけです。新潮社に『破戒』『春』『家』と短編集『微風』を含む「緑蔭叢書」を当時のお金で二千円で売って旅費や滞在費に当てたそうです。それから、四人の子供のうち二人の息子の養育を引き受けてくれた次兄(こま子さんのお父さん)に養育費も仕送りをしないといけない。出発する時点ではお兄さんは娘と藤村とのことは全然知らされていなかったので、喜んで子供の世話を引き受けて送り出したのだと思います。

藤村が生まれ育った家庭の尋常ならざる状況

面と向かっては打ち明ける勇気がなかった藤村が船の上で手紙を書きまして、それを香港で出すのです。香港で出した手紙がまずお兄さんの所に届いて、その返事が藤村のパリの下宿にシベリア経由で届いたという、誠に悠長な話です。今だったらメールで一足飛びなので、こういうことで済みません。なぬを!、みたいな感じで返信が来そうですけれども、それだけタイムラグを置いて怒りを冷ますのにはちょうどよかったのかなと思います。

藤村のポール・ロワイヤルの下宿先に届いた返信は、こんな内容です。お兄さんは、さすがのことに十日あまり非常に考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から東京にやってきた。事件は結局奥さん(こま子さんのお母さん)にも知らせずに自分ひとりの胸におさめる決心をしまして、藤村に「できたことは仕方がない。お前はもうこのことを忘れてしまえ」と書いたというのです。今だったら考えられないと思うのですが、まだそういう時代だったのですね。その年の夏に生まれた赤ちゃんは養子に出されたそうです。

藤村のお兄さんが弟の不始末をこのように寛大な心で受け入れた背景には、藤村が生まれ育った家庭の尋常ならざる状況があったと言われています。藤村のすぐ上のお兄さんはお母さんの不始末でできた子だったという話がありますし、何とお父さんも妹さんと関係があったらしいのです。お二方とも精神の病に苦しんでいらしたということで、そういう遺伝があるから仕方がないとお兄さんが思ったのかもしれないです。藤村の名作『夜明け前』のモデルがこのお父さんです。素晴らしい作品を生み出すアーティストに複雑な感じを抱くこういう話をきくとさまざまなことを思います。私自身もさっきご紹介にあずかりましたように父方の祖父に青柳瑞穂というフランス文学者をもっております。文学者としては大した仕事はせず、ジャン・ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』と、フランスのモーパッサンという作家の短編集が新潮文庫にかろうじて残っているぐらいですが、骨董蒐集のほうで少し名を成しました。今も私が住んでおります杉並区阿佐ヶ谷の家は、井伏鱒二や太宰治が集った”阿佐ヶ谷会”という文芸サロンの会場でした。そこでいろいろな文士のこととか、太宰さんのこともよく見聞きしていたものですから、こういう家に生まれると、しばしばスキャンダルが起きて、普通に暮らしている人々まで巻き込まれ、精神的被害や物質的被害を受けるものだということを知っているのです。大きな素晴らしい作品を生み出すアーティストにはよくそういう騒ぎが起きますし、太宰さんの話もきかされていたので、私としては本当に他人事ではなく、ただ一方的にけしからんやつだというふうに言えない複雑な感じがいたします。

パリで見聴きした舞台、音楽会のレポートを書く

藤村がパリに着いて、こま子さんとのことも何とか許してもらえそうだということがわかったので、今度は、生活費稼ぎも兼ねて、パリで見聴きしたいろいろな舞台や音楽会のレポートを新聞に書くようになります。藤村が見たり聴いたりしたものを詳細に知ることができるのもそのためです。

パリに着いて一月後に劇作家・演出家の小山内薫さんがやってきました。小山内さんはスタニスラフスキー・システムの演劇理論に広く感銘を受けてそれを日本に導入した方ですけれども、このときモスクワ、ベルリン、ロンドンなどで演劇行脚をしていらした。当時のパリといいますのはディアギレフという興行師が率いるロシア・バレエ団が非常に人気が高く、文化人はこぞって観に行ったのです。ちょうどそのロシアバレエ団の公演があるので、小山内さんが藤村を誘って観に行っております。

その場所というのがテアトル・デ・シャンゼリゼ。今、パリで一番大きくて人気の高い催しが開かれるのがこの劇場です。このシャンゼリゼがちょうどこの年に完成しまして、真新しい劇場でロシア・バレエ団の公演が行なわれました。

この一九一三年は、私たちのクラシック界にとって画期的な年でした。クラシック音楽が、それまでモーツァルトとかベートーヴェンとかシューマン、ショパン、リストのような古典派やロマン派の音楽から一つ飛び越えて二十世紀音楽という非常にモダンな音楽に移行した区切りの年とされております。そのきっかけになったのが一九一三年にロシア・バレエ団で上演されたストラヴィンスキーの〈春の祭典〉。つづめて我々は〈春祭〉と呼んでいるのですけれど、非常に斬新な音楽と振付で話題を呼びました。賛否両論だったわけですけども。

〈牧神の午後への前奏曲〉にもとづくバレエを観るしかしこのとき藤村と小山内さんは〈春の祭典〉ではなくて同じ年の六月に初演されましたフロラン・シュミットの〈サロメの悲劇〉と、前の年に既に初演されていたドビユッシーの〈牧神の午後〉をバレエにしたものを観ております。

お手元に資料三枚をお配りしております。一枚目の〜島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー音楽〜のリストに一三年六月十二日シャンゼリゼ劇場での催しがあります。〈牧神の午後への前奏曲〉にもとつくバレエの天才舞踊家のヴァツラフ・ニジンスキーが自ら振付をして自ら踊っております。その踊っている舞台写真が三枚目の一番下にあります。

”牧神”といいますのはギリシャ神話の森の神で、腰から上は人間の姿をして腰から下は山羊で、非常に好色な神でいつも森のニンフたちを追いかけ回していたという言い伝えがあります。その牧神に扮したニジンスキーが全身を獣のように彩って小さな尻尾も付け、”パンの笛”を吹きます。これにはギリシャ神話で逸話があります。

牧神はある日シリンクスという美しいニンフを追いかけていたのですが、シリンクスが、牧神に捕まらないようにと神様にお願いすると神様がかわいそうに思って岸辺の葦に姿を変えてしまう。で、牧神は仕方なくその葦の茎を取って、管に息を吹き込んで七本連ねたパンフルートをつくりました。それから常に牧神はパンフルートを吹いているという言い伝えがあります。

ギリシャ神話にもとつくエピソードをもとにマラルメという象徴派の大詩人が詩を書きました。牧神が二人のニンフを追いかけたのですけど逃げられてしまって疲れて昼寝をするのです。昼寝から目覚めた牧神が、そのニンフが残していったべールをかき抱いて妄想にふけるというような詩です。マラルメはとてもとても難しい詩を書いた人なので、こんなふうにベタな解説ができるような内容ではないですが、大雑把に言うとそのような意味なんです。それをニジンスキーが舞踊化しまして踊りました。

ニジンスキーの〈牧神〉は一九一二年五月二十九日に初演されまして大スキャンダルを起こします。日本にも『朝日新聞』と『読売新聞』という二大新聞があります。『読売』と『朝日』はイデオロギーが異なる新聞だと思いますけども、フランスでも保守的な『フィガロ』と革新的な『ル・マタン』があり、この二大紙が〈牧神の午後への前奏曲〉舞踊版を巡って対立します。まず『フィガロ』の編集長がニジンスキー扮する牧神の卑狸で野獣的な動きや淫らな身振りを非難しました。牧神というのはさっき申し上げたようにそもそもが好色な神なので仕方ないと思うのですけれども。これに対しまして有名な彫刻家のロダンがライバル紙の『ル・マタン』で、いやこれは素晴らしい芸術だと熱烈な賛辞を贈っています。

では、この舞台を藤村はどのように観たのかといいますと、次のように描写しています。

「パンの神に扮したニジンスキーが腰から下を彩り人間の身体でいながらそれで獣の形を失わずに昼寝の夢から覚めたときの静かな詩のような戯れを見せましたが、そのときなどは満場の見物は熱狂したようにブラボー、ブラボーの声と熱心な拍手とで一度退場した男女の俳優を幾度となく舞台に呼び返しました。」

藤村が観たのは初演から一年後なのですが、初演のときは観客の半分は熱狂的な喝采を贈り、残りの半分は同じぐらいの勢いで抗議したということですので、一年たつと大分みんな慣れてきているということだと思います。

藤村のほうは〈牧神の午後〉よりは〈サロメ〉を踊ったカルサヴィナというバレエリーナに魅かれたようです。

ドビュッシー自作、自演のコンサートに接する

それから次の演目。一九一四年三月二十一日ガヴォー・ホールで、藤村がドビユッシーの自作自演コンサートを聴いています。(資料)でガヴォー・ホールのあとに”フィラルモニック協会主催”というふうに書いてありますが、これがフランス語のめんどくさいところで、いわゆる普通にフィルハーモニー(交響楽)なのですけどハーモニーに当たるHをフランス語は発音しないので”アルモニー”になるのです。しかもリエゾンといって全部つながるので、カタカナにすると”フィラルモニック協会”となって、何のことだかわからなくなりますが、フィルハーモニック協会のことです。ガヴォー・ホールは今まだパリにありまして五百席ぐらいのこぢんまりした会場です。ここで藤村は、ドビュッシーが自らステージに上がって自作を演奏するコンサートに接しております。曲目ですが、ドビュッシー作品によるコンサートにもかかわらず最初が〈モーツアルト弦楽四重奏曲ト長調〉。しかもこれは”ト長調”としか書いてなくて何番だかわからないのですけども、恐らく<春〉という、いわゆるハイドン・セットの最初の作品ではないかと思います。それを演奏したあとでドビュッシーが、先ほどご紹介しました〈牧神の午後〉を書いたマラルメの詩から三点を選んで音楽を付けた〈マラルメの三つの詩〉を、ニノン・ヴァラン=パルドーというソプラノ歌手に歌ってもらって自身が伴奏しております。

ニノン・ヴァランは(資料二枚目左の写真)の方です。一八八六年生まれということです。写真を見るとなんだかすごいオバサンに見えるのですが、このときまだ二十代でとても若かったはずです。

ニノン・ヴァランは一九一一年、ドビュッシーのオラトリオ〈聖セバスチャンの殉教〉に出演しています。ダヌィツオの台本による神秘劇で舞踊家のイダ・ルビンシュティンが踊りまして、作曲家・指揮者のD・Eアンゲル・ブレシュトが指揮をします。ニノン・ヴァランの横でピアノを弾いているのがアンゲル・ブレシュトです。ニノン・ヴァランは、〈聖セバスチャンの殉教〉では熱病に冒された少女の役だったので、熱に浮かされたようなメイクアップをしているのかもしれないですが、観ているほうが熱が出そうな恐い感じです(笑)。

彼女は非常にドビュッシーに気に入られまして、一三年の自作自演コンサートでも歌曲集〈マラルメの三つの詩〉初演の大役を任されたのでしょう。ドビュッシーは自分の作品を演奏する演奏家、ピアニストとか歌手にとても厳しくて罵詈雑言を浴びせるとても恐い作曲家だったのですけど、ニノン・ヴァランについては「音楽がテキストを通じて描きだしている曲線の魅力的な把握を彼女が全て表現してくれた、素晴らしかった」というふうに賛辞を寄せております。

ドビュッシーの本質を鋭く見抜いた”藤村の観察眼”

さて、島崎藤村がこうして音楽会に行ったり、それについてレポートするためには音楽的素養が必要だったと思いますが、彼はとても若い頃から西洋音楽に憧れてヴァイオリンを学んだり、今の東京芸大の前身の東京音楽学校の専科に入学しております。専門的に勉強する本科ではなくて趣味の人も学ぶことができる専科です。今は別科というのがそれに当たると思うのですが、東京芸大は志望者が多いため別科ですら狭き門でなかなか合格できないのですけど、その頃はまだ黎明期だったので藤村でも入学できたのだと思います。そこで橘糸重さん、ケーベル博士の愛弟子だった方にピアノを習ったりしております。ですから音楽がとても好きだし自分で楽譜も読めたし演奏もできたということだと思います。

藤村が書いた『エトランゼエ』という小説にはこんなことが書かれています。

「ドビュッシー自身が演奏台に立って自分の作曲を自分で弾いて聴かせるようなことは巴里でも滅多に得られない機会で、実は暮れのクリスマスの前あたりから私の心掛けて置いたことだ…。(中略)やがて人々の視線は一斉に薄青い色の服を着けて演奏台の上に立った一人の婦人に集まった。マラルメの詩を独唱する為にバルドオ夫人という人が大きな洋琴(ピアノ)を背にして立った。その後方に沈思黙考するかの如く洋琴の前に腰かけ、特色のある広い額の横顔を見せードビュッシーはとてもおでこで、生まれるときもおでこが引っかかってなかなか生まれなかったというエピソードの持ち主です−北部の仏蘭西人の中によく見るような素朴な風采の音楽者がバルドオ夫人の伴奏として、丁度三味線で上方唄の合の手でも弾くように静かに、渋い暗示的な調子の音を出し始めた。その人がドビュッシーであった。バルドオ夫人が一曲を歌い終ると盛んな拍手が聴衆の間に起った。その時ドビュッシーは夫人の背後から簡単な会釈をしたが、自分の音楽が聴衆の喝采の渦の中へ巻き込まれるのを迷惑がるかのように見えた。」

ここが藤村のすごいところだと思うのですけど、普通だったら有名な音楽家、しかも自分より十歳年上の大作曲家の自作自演を観て感激してそこで終わってしまうと思うのですけど、藤村は初めて見たドビュッシーの本質を鋭く見抜いているのです。この観察眼というのは藤村も自ら頼むところが大きかったようで「神は私に小さな観察の力を与えた。長いこと観察は私の武器であった。私はそれを持って世と戦ってきた。」と書いております。

趣味でピアノやヴァイオリンを弾いたとはいえ、音楽評論家でもないのに舞台に立った姿を観ただけで、ドビュッシーは非常に厭世的で内向的な人だと、実際そうなのですけども、人前に出たり喝采されたりするのを嫌がる人だというのを見抜いた。すごいなと思います。

演奏−−島崎藤村がパリで聴いたドビュッシー −−音楽

これから演奏するのがドビュッシーがソロで弾いた〈子供の領分〉です。最初の曲は〈グラドス・アド・パルナスム博士〉。ちょっと弾いてみます。

〔ピアノ演奏〕

〈子供の領分〉の第一曲目の〈グラドス・アド・パルナスム博士〉という曲です。ドビュッシー自身はこの組曲を一九〇五年に生まれたシュシュというかわいい女の子に捧げるために書きまして、シュシュが遊んでいたおもちゃであるとか、当時流行していた”操り人形”などを題材にしております。

藤村が聴いたドビュッシーの〈子供の領分〉の感想を読んでみます。

「〈小さな羊飼い〉とか〈雪は踊りつつある〉とか〈人形の窓の下の唄〉(人形へのセレナーデ)とか、おとぎ話の清い深い情緒を思わせるような小曲が私の耳に付いていた。私はあの大人の心をも子供の心をも誘う
ように夕方の林に小鳥の群れが集って互いに啼り騒いでいるような楽音をありありと耳の底に聴くこともできた。あの音楽者の指が洋琴の鍵盤の高い音の出る部分に集っているのをありありと目に見ることもできた。」

続いて〈象の子守唄〉。シュシュが寝るときにいつも抱いてベッドに入っていた”象のぬいぐるみ”の描写です。

〔ピアノ演奏〕

今聴いていただいたのは〈象の子守唄〉と〈人形へのセレナーデ〉でした。〈子供の領分〉は、自分の娘を思う温かい眼差しが感じられる曲ではあるのですけれども、全体に漂っている寂寥感のようなものはそれだけでは説明できません。先程藤村がパリでドビュッシーを聴くきっかけになったのが私生活のスキャンダルだったというお話をしたのですけど、実はその〈子供の領分〉もドビュッシーの私生活のスキャンダルから生まれた曲集でございます。

ドビュッシーの最初の奥さんは、よくある話なのですけど、貧しい時代に生活を支えたお針子さんでとてもきれいでとても家庭的な方だったのですけども、やや教養に欠けるところがあってなかなかドビュッシーの作曲家としての苦悩や詩心は理解できなかったようです。

一九〇二年に唯一のオペラである〈ペレアスとメリザンド〉という大作を初演しました。ドビュッシーはもう四十歳だったのですが、このとき一流作曲家の仲間入りをしまして、ようやく作曲でいわゆる食べていけるようになりました。とても遅かったのですが。そうしたさなか、その翌年ぐらいに、自分の作曲の弟子のお母さん、ボルドーのほうの教養深い裕福な家に生まれたエマ・バルダックという女性と出会います。この方は非常に歌が上手で、上流社会のサロンでフォーレやラヴェルの曲を初演したりして世に知られた歌姫だったのです。ドビュッシーはそのエマ・バルダックに恋をしてしまいまして、一九〇四年夏に糟糠の妻リリーを捨てて彼女と駆け落ちしてしまいます。完壁にダブル不倫なのですが。次の年にシュシュというかわいい女の子が生まれました。名前はクロード・ドビュッシーとエマ・バルダックの両方を取ってクロード・エマ。愛称がシュシュ。フランス語で”モン・シュ”とか。マ・シェリ”と言うと「私の愛しい人よ」という意味です。それを二つ重ねて、本当に愛しい愛しい娘だったのでしょうね。この時点ではまだ二人とも離婚が成立していなくて、不義の子でした。離婚が成立するのは一九〇八年になってからです。

大変なスキャンダルで、ドビュッシーの若い頃に親交のあった詩人たちは、苦労を共にした妻を捨てて金持ちと結婚したドビュッシーを見放してみんな去っていってしまいます。実際に暮らし始めてみると、上流階級の生まれだった奥さんと金銭感覚がまったく違いました。パリはご存じのとおり狭いですから、いわゆるアパートに住むのが普通なのですが、東京で言う田園調布とか広尾とか麻布のような所、十六区に一軒家を構えて、しかも料理人と召使と子供の養育係を雇っていたそうです。それだけ使用人のいる生活などとてもドビュッシーの荷には重くて、莫大な借金をかかえ、駆け落ちしたことも後悔して非常に寂しい、欝々として楽しまない晩年を送りました。〈子供の領分〉を作曲した一九〇八年というのは、双方の離婚が成立した年ですが、この曲だけしか書いていないぐらい創作的にも行き詰まってしまった年なのです。

〈子供の領分〉も楽しいだけの曲ではなくて、これから弾く<雪は踊っている〉はとても淋しい曲想で、ドビュッシーの苦悩が表れているような感じがします。

続けて弾きます〈ゴリウォーグのケークウォーク〉は、当時子供たちに絶大な人気を誇った黒人の操り人形を模した楽しい曲です。

〔ピアノ演奏〕

楽しい曲ですね。

最後にお話ししておきたいのは(資料三枚目)”牧神”の写真上の図版についてです。島崎藤村が実際に持っていたドビュッシーの自作自演コンサートのプログラムで、曲目や出演者、ニノン・ヴァラン=パルドーとかアイヨ弦楽四重奏団とか書いてあるのですが、細かく見ますとコンサートの日が一九一四年三月十日と書いてあるのです。実際にコンサートが行なわれたのは二十一日だったのですが。

どうしてかなと思って調べたら、これにはいろんな背景があることがわかりました。ドビュッシーは、さっきもお話ししたようにとても贅沢な妻を娶ってしまったので作曲だけではとても食べていけなくて、そのころさかんに演奏旅行をしておりました。既に有名になっている自分の作品を、例えば〈牧神の午後〉を指揮したり、ピアノ曲を弾いたりするコンサートで、ロンドン、ブリュッセルはじめベルギー各地、ローマなどを回っていたのです。その演奏旅行の最中にブリュッセルの演奏を終えて汽車に乗ったとき、ドアに指を挟んで左手の親指を怪我してしまいます。それで三月十日を二十一日に延期したようです。しかもよくよくプログラムを見ますと〈グラナダの夕暮れ〉とか〈風変わりなラヴイーヌ将軍〉も載っているのですが、怪我した親指ではなかなか弾きにくかったと見えて、三月二十一日には曲目を変更して〈亜麻色の髪の乙女〉〈沈める寺〉〈ヴィノの門〉という前奏曲を弾いております。

藤村が所有していたプログラムは日本近代音楽館に収められているのですが、そうやってとっておいてくれたからこそ大作曲家の知られざるエピソードを知ることができるわけです。
 
最後に、ドビュッシーが二十一日のコンサートで弾いた〈亜麻色の髪の乙女〉を弾かせていただきます。

〔ピアノ演奏〕(拍手)

清原副理事長
青柳さん、きょうは含蓄のある興味深いお話、そしてお見事な演奏をお聴かせいただきまして、本当にありがとうございました。(拍手)

実は青柳さんと私は音楽仲間と語らって時に食事をしながら音楽談義をさせていただく。そういう会を定期的に続けておりますけども、そもそもの巡り合いはある一冊の本でございます。今から十数年前になりますか、私はアメリカに出張する際に飛行機の中で読む本を探しまして、飛行機の中ですからうっかりミステリーなんか持っていくと眠れなくなってしまう。なるべく眠れる本を持っていこうと思いまして評論集を選びまして『ピアニストが見たピアニスト』。ピアニストでいらっしゃる青柳さんがリヒテルだとかミケランジェロだとか世界の著名なピアニストについて評論しエピソードを綴った本があるのです。これを持っていきましたら眠るどころかあまり面白くて結局一睡もせずにアメリカに着いてしまった。そういうことがございます。さすがに青柳瑞穂さん、モーパッサンの小説の名訳などで知られる文筆家の青柳さんの血を引いておられるだけに−−きょう、皆さん、お話をお聴きになって感じられたと思うのですけれども、文筆力だけでなくて取材力がすごいですね。細かなエピソード。きょうも藤村やドビュッシーにまつわるスキャンダルのエピソードを交えてお話しいただきましたけれども、そういうエピソードに溢れているのでそれで私も是非そういうお話を生で聴いてみたいというので知人を介してご紹介いただいたわけでございます。

こうやって私が青柳さんの文才について賛辞を述べておりますと、青柳さんちょっと拗ねて、じゃ演奏のほうはどうなのよ(笑)という顔をなさるのですが、申すまでもなくドビュッシーの演奏にかけては日本ピアニスト・ナンバーワン。ドビュッシーのピアノ音楽に関しては。きょうもドビュッシー独特の色彩感溢れる音楽を繊細なタッチで見事に描き尽くしてくださったと思います。

交詞社の文化講座はいろいろなテーマで催しておりますけども、こういう文学と音楽の接点という点できょうは非常にユニークな講座であったと思います。皆さん、是非この余韻を胸にすぐ本屋にお寄りになって。青柳さん、実はミステリー小説をお書きになるんですよ。古今東西のミステリー小説を全部読破なさって評論集をお書きになっている。大変多才なお方で、本は無数にございますし、それから演奏もドビュッシーを中心に素晴らしいCDがございます。また近く演奏会もございます。是非足をお運びいただければと思います。本当にきょうは、どうもありがとうございました。(拍手)

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