【リレー連載】「ラスト・ソナタへの誘い」第1小節(音楽現代 2004年1月)

一九一七年、つまり、ドビュッシーの死の前年に書かれた『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』は、文字通り彼の白鳥の歌である。二年前に直腸癌の宣告を受けた彼は、第一次世界大戦のさなか、精神的にも肉体的にも極限状態にあった。『ソナタ』は、一七年二月にいったん完成されたが、終楽章が気に入らなかったドビュッシーは、書きなおす必要を感じた。出版者のデュラン宛ての手紙で、「この恐ろしい終楽章は、周囲の不安をあまりに感知しすぎたので徹底的に修正しなければならなかったのだ」と書いている。ところが、修正した結果、この楽章はとても明るくなってしまったのである。五月五日、ガストン・プーレと初演を行なったドビュッシーは、ある友人に「天の邪鬼」のせいで残してはいけないアイディアばかり選んでしまった、このソナタは、病気の男が戦争中に書くことのできる例として、ドキュメンタリー的にも興味深い作品になるだろう、と語っている。

『ソナタ』は、一九〇八年からとりくんでいたエドガー・ポーにもとづく未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』とも深い関わりをもっている。パリ国立図書館に所蔵されている赤い表紙の作曲帳では、最初のページにこの作品の第三楽章のスケッチがあり、次のページからは『アッシャー家の崩壊』がスケッチされている。語法面でも、たとえば第二楽章でヴァイオリンとピアノがユニゾンで弾くモティーフは、『アッシャー家』のマデラインのアリアのモティーフによく似ているし、第三楽章の循環主題は、『アッシャー家』のロデリックの歌の旋律だったものが、のちにソナタに移行したことがわかっている。

オペラ『アッシャー家』は、作曲者の手で清書された一幕全部と二幕目の一部が残っており、アジェンデ=ブリンの編集を経て管弦楽化され、ジョルジュ=プレートル指揮のモンテカルロでCD化されている。しかし、このCDは音が明るすぎるため、どうもおどろおどろしさに欠けるようだ。その点、フランスにいるときラジオで聴いたフランクフルトのオーケストラのものは、原作にふさわしい暗い音色で陰惨な雰囲気がよく出ていた。

『ヴァイオリン・ソナタ』でも同じようなことがいえる。たとえばティボー=コルトーの洗練された洒脱な演奏は大変魅力的だが、『アッシャー家の崩壊』のドラマを背景にしたこのソナタの異常なところ、ドビュッシーが「天の邪鬼の仕事」と書いたひきつったようなユーモアが充分に表現されていないような気がする。私が最も作品の深さ、緊張感を再現していると思うのは、バルトーク=シゲティのディスクだ。

一九四一年にアメリカに亡命するバルトークは、最終的に移住する前の小手調べとして友人のシゲティとともにワシントンの国立国会図書館でコンサートを開く。曲目は自作の『ヴァイオリン・ソナタ第2番』『ヴァイオリンとピアノのためのラプソディ第1番』とベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』、そしてドビュッシーである。コンサートそのものの評判はあまり芳しくなかったようだが、このときの演奏は音楽部門長の先見の明によってアセテート盤に録音され、ライブラリーに保存されていた。

ライヴ録音ということもあり、もとより完壁なアンサンブルではない。しばしば縦の線は合わないし、ピアノが出なかったりヴァイオリンの音がかすれたりするところもある。シゲティは、一般的な意味でのフランス音楽の理想的な弾き手ではないだろう。フランス音楽特有の響きの美食趣味のようなところは、彼の演奏からは望めない。あまりにも禁欲的、求道的で、しなやかさに欠ける面があるかもしれない。しかし、一九二〇年代から積極的にドビュッシーのソナタを弾いてきた彼は、むしろ、だからこそこの作品を演奏する使命感を感じたのではないだろうか。つまり、軟弱で軽佻浮薄なフランス音楽というイメージを払拭し、カップリングされている『クロイツェル・ソナタ』に負けないような深い精神性とスケールの大きさ、堅固な構造をそなえた傑作として評価させるために。

バルトークのピアノも、非常に輪郭のはっきりした演奏で、印象主義音楽という標語から連想される曖昧模糊としたところは微塵もない。切れのよいリズム、明晰なタッチは、とくにこのソナタを弾く上で必要不可欠なものだ。錯綜をきわめ、しばしば寸断されたような印象を与えるスコアから核となるポイントをおさえ、作品の構造をくっきりときわだたせているのも、読譜を知り尽くした作曲家ならではだろう。

第一楽章は、虚無的な響きのするピアノの和音ではじまる。ヴァイオリンの主題は大変神経を使うデリケートなところだが、シゲティの緻密なヴィヴラートは常に外ではなく内に向かっている。余計なことは一切しないという姿勢は徹底していて、「熱情的に」と指示されているパッセージも、内的な盛り上がりに忠実だ。ピアノの六連音符のアルペジオにのって四連音符をゆらす部分など、ともするとムードミュージック的になりがちだが、浮遊感はそのままに、刻々と移り変わる心象風景をすなおに表現している。

第二楽章、ともに鋭いスタッカートで応酬するヴァイオリンとピアノのやりとりには、鬼気迫るものがある。ドビュッシーのスケルツァンドには必ずこのように、グロテスクな諧謔性が必要なのだ。わずかに不満があるとすれば、マデラインのモティーフに似た音型をヴァイオリンとピアノがユニゾンで奏でるところで、ここはもっと世紀末的な耽美性がほしかった。

第三楽章は感動的だ。ひそやかなピアノのトレモロで始まり、第一楽章のはりつめた主題がそれに乗っていく。ドビュッシーが「意に反して歓喜に満ちた」と表現した循環テーマは力強く高らかに歌われ、少しも浮ついたところがない。二倍遅くという部分では、「死の待合室にいる」と漏らした作曲家の悲痛な叫びがきこえてくるようで、私はここを聴くたびに涙してしまう。最も見事なのは、ヴァイオリンの循環主題を重ねて遅いテンポから徐々に盛り上げていく部分で、複雑なリズムを見事にこなすピアノが主導権を握り、完壁なテンポ設定で一気にコーダに至る。

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