一色まことの音楽マンガ『ピアノの森』には、こんなシーンがある。
全日本学生ピアノコンクールの小学生部門。幼少から才能を発揮する子供たちはすでに有名で、情報が行き渡っているものだが、一人、まったく無名の五年生が予選会に出場した。一ノ瀬海(カイ)というその男の子は鳥肌がたつような演奏で聴衆に強い印象を与える。誰もが、こんな演奏は空前絶後だと思い、誰もが彼の優勝を確信する。客席も、他の出場者も、最大のライバルである雨宮修平ですらも。
しかし、審査員団だけはこの感動と無縁の存在だった。海はいったん演奏を開始してから手を止め、ふたたび弾きはじめた。実はそこからが空前絶後だったのだが、審査員にとっては、途中で止まるのは大罪中の大罪、×ゼロにひとしい。よってカイは落選となり、本選にすすむことができなかった。
実は、日本でもっとも権威があるとされる音楽コンクールでも、十年ほど前に似たようなことが起きた。現在では音大の地図も徐々に塗り替えられつつあるが、当時は本選出場者は東京の二大音大の学生で占められていた。そこに、関西の音大出身のあるピアニストが割ってはいる。
まったく無印の彼女の演奏があまりにすばらしく、審査員たちは予選の段階から「誰なんだ?誰に習っているんだ?」とささやきあったという。本選でも彼女はすばらしい演奏で、客席を身震いさせた。しかし、優勝どころか入賞すらしなかったのである。
審査員のせいではない。新聞に発表された点数はダントツのトップだった。ではなぜか?演奏曲目に不備があったらしい。でも、曲目は出場前に提出しておくものだ。不備があるなら最初から注意すればよかったではないか・・・と、誰もが思った。
『ピアノの森』では、審査員の本音が明かされる。雨宮修平の父親で高名なピアニストの洋一郎は「彼のピアノは飛び抜けててそれを測る目盛りを審査員の半分以上が持ってなかったからじゃないか!」と言う。
「目盛りがないんだから異端とみなしてはじくしかないだろ」これはすばらしいセリフだ。誰もがうすうす感じていたことを、ズバリと言ってのける。だから、私たちは膝を叩く。マンガの世界の中のことでも、なぜかうれしい。
私たち?そう、クラシックの専門家のことだ。
『ピアノの森』にせよ二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』にせよ、昨年映画化されたさそうあきらの『神童』にせよ、一般読者にとって音楽マンガは、普段は縁遠いクラシックの世界の一端を垣間見る絶好の媒体だ。
音大生はどんな生活をしているのか、クラシック界にはどんな陰謀がうずまいているのか、どうしてピアニストは楽譜を見ただけですぐに弾くことができるのか、どうしてあんなに早く指がまわるのか、どうして、どうして・・・。
一般人とはかけ離れた才能をもつ人たちが形成する、かけ離れた社会のことについて、興味しんしんの読者は、音楽マンガを通して扉の中にはいろうとする。
しかし、もともと扉の内側に住んでいる私たち専門家は、逆に、音楽マンガによって扉の外に出ることができるのだ。
幼時から音楽の勉強をはじめ、レッスンと音楽教室と発表会しか知らずに成長する専門家は、閉ざされた社会の価値観にがんじがらめになっている。音楽マンガを読み、登場人物を投影することによって、はじめて外から自分たちの生態をながめることができる。
今まで一人でもがいたりのたうちまわったりしていたけど、自分だけではなかった!
自分が思い悩んでいたことは社会のこんな仕組みからきていたことで、自分ひとりが悪いのではなかった!そんなふうに思って安心する。
音楽マンガは、だから、クラシックに縁遠い一般読者だけではなく、専門家にとっても大いに効験あらたかなのだ。
『のだめカンタービレ』にも名セリフは多いが、なかでも私たちの胸を打つのは、「ボクたちは音楽でつながってる」というフレーズだ。
新進指揮者の千秋真一は、子供のころウィーンで出会った名指揮者ヴィエラが贈ってくれた言葉をいつも心にしまっている。ボクはキミのお父さんにはなれないけど、ずっと音楽でつながっている、それを忘れずにがんばりなさい・・・。
扉の内部に住んでいる人も、外にいる人も、みんな音楽でつながっている。すばらしい演奏を聴いたときの感動は、外にいても中にいても変わらない。すばらしい先生に出会ったときの感動も、レッスンの過程でほんの少しでも進歩を自覚したときの感動も、むずかしい曲をうまく弾けたときの感動も、レヴェルには関係なく、大きいものだ。
そんな感動を、音楽マンガの読者とわかちあうことができるのは、とてもうれしい。
(文春新書『ボクたちクラシックつながり ピアニストが読む音楽マンガ』発売中)