音楽とは、情念そのもの
今年生誕二百年を迎えたショパン。よく知られているのは『小犬のワルツ』か『雨だれの前奏曲』か。名前がすぐ浮かぶショパン弾きはブーニンだろうか、ランランだろうか。
本書のテーマである『バラード第四番』にしても、「私」のモデルとおぼしきイタリアの巨匠、アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリにしても、玄人好み中の玄人好み、この一点だけでも、作品に漂うただならぬ雰囲気がおわかりいただけるだろう。
『バラード第四番』は、音楽的内容の深さとともに、いかなる名手の手をも震わせる恐るべき終結部で我々に畏怖の念を起こさせる。本書は、この終結部よりさらに演奏至難の異稿を伴う楽譜があり、亡命ロシア人によって「私」の手に渡るという筋書きである。
ナチスによってパリからベルリンに持ち出されたショパン自筆の楽譜は、赤軍によってモスクワに運ばれ、音楽院の教授の弟子によって盗み出され、彼が収容所に送られる寸前に友人の手に渡り・・・。といっても、楽譜に政治的な暗号が仕込まれているわけではない。本書はスパイ小説ではないし、作品の「謎」は純粋に芸術的なものなのである。
『バラード第四番』は一八四二年作だが、異稿は四九年二月の日付をもつ。作曲家の死の約八か月前だ。乱れがちな筆跡を前に「私」が展開する推理が最大の読みどころだ。
自筆譜はサンドの娘ソランジュに捧げられている。義理の父娘ともいうべき二人の関係はいつも曖昧なままにされてきた。しかし「私」は、「プレスト・コン・フォーコ」と記された異稿に、秘められたソランジュへの燃える思いを読みとる。「愛を告白することのなかった女性に、楽譜を贈呈しようとするだけではもはや足りずに(中略)言葉で表現しきれない、何かを付加せずにはいられない、気持の表われ」こそがこの楽譜ではないか、と。
音楽家にしかできない告白の形。「音楽とは、情念を語るための方法ではなく(中略)情念そのもの」だという一行は、見事に、音楽芸術の核心をとらえている。