玉手箱のように言葉が立ちのぼってくる川上弘美の短編集『龍宮』の中の一遍
「海馬」は海にも、人間界にもなじめない
『龍宮』のと題された川上弘美の短編集を開いたとき、中から、本当に玉手箱のように言葉が立ちのぼってきた。
ウラシマ太郎さんのように頭が真っ白のなるのではないか、と思ってあわてて本を閉じた。それから、もう一度開いて、少しずつ読みはじめた。
最後に置かれた「海馬」は、記憶をつかさどる脳の海馬のことかと思ったら、人魚のルーツらしい。
現代の海馬は、世田谷区のはずれに住んでいる。 駅前には、さびれたレンタルビデオ屋が二軒。 隣に、昔からあるとうふ屋とケーキ屋。夫は会社員で、子供は四人。一番下が女の子。
海馬は、海にはいないような強い匂いのする男に誘われて、海を出たのである。しかし、男はただの女たらしでしかなかった。食い詰めた男は海馬を村の網元に売りとばし、網元は海馬が逃げないように鎖をつけた。それからも海馬は沢山の主人に飼われたが、海から来た者は海に帰ることを知っている彼らは、海馬を海のそばに置かないように注意した。
陸に上がって長くたち、人間の間で暮らすうち、海馬は、どうにかして主人たちと、人間たちとまじりあおうとしたが、ダメだった。しかし、海にいたときも、海馬は決して海になじまなかったのだ。同胞とはあまり交わらず、いつも北方の海に一人さまよい出ていた。
海馬より先に海に帰ったのは、四人目の娘である。嵐の晩、彼女は川にとびこんで見えなくなってしまった。海馬は、海を見たい、と夫に言った。夫は海馬を車に乗せて首都高速を走り、厚木で降りて大磯まで来た。海にはいった海馬は本来の姿にもどり、娘が北の海に漂っているのを見ながら、思い切り泳いだ。
この話で思い出すのは、子供のころ読んだ人魚の民話である。人間の男の妻となった人魚は、家族と教会に行くのだが、聖者にそっぽを向かれてしまう。哀しくなって海辺を散歩するうち、昔の仲間に呼ばれて、また海に戻るという話だ。
物語はここで終わっているのだが、私は、そこからの生活がとても気になってしまう。アンデルセンの人魚姫にしても、海の底にいればいいものを、わざわざ陸に上がってきたのは、海の底にはないものへのあこがれがあったからだろう。でも、人間界に出てきてみると、異邦人でしかない、そんな哀しさがある。
私にとって、音楽の世界は海の底、文筆の世界は人間界だ。何か充足できないものを感じて、文筆界ならそれが満たされるかと思って、出てきてみる。たしかに一部は満たされるのだが、別の意味でなじめないものがある。海の底から出てきたということ自体が売り物になって、けっこう商売になるのがいやで、また音楽界に戻っていく。 しかし、いったん別の世界に出て行った者は、もう仲間として扱ってもらえない。そんなジレンマを水の精の物語に重ね合わせて、身につまされながら読んでいる。