クロード・ドビュッシー(一八六二~一九一八)が一九一七年二月、生涯最後に書いたピアノ曲は、『石炭の明かりに照らし出された夕べ』というタイトルを持っている。ボードレール『悪の華』の「露台」の一節からとられたものだ。
その冬、パリは大寒波に見舞われ、二月はじめにはマイナス一五度を記録したという。折しも第一次世界大戦のさなかで電気とガスは制限され、ドイッ軍が北方を占拠していたため石炭も備蓄の40パーセントが失われていた。
ドビュッシーは寒さと石炭の不足に悩んでいたが、直腸がんで闘病中で仕事をすることもできない。音楽好きの石炭商の求めに応じて燃料と引き換えに書いたのがこの作品で、二〇〇一年に発見された。
わずか二三小節の小品だが、冒頭部分は、やはり『悪の華』の「タベの譜調」に想を得たピアノ曲「音と香りは夕暮れの大気に漂う」(『前奏曲集第一巻第4曲)とよく似ている。
ごく若いときから、ドビュッシーはボードレールに傾倒していた。一八八四年にローマ大賞を受賞し、翌年メディチ荘に留学した折りには、支援者のヴァニエ氏への手紙で「僕はいつも、なんらかの形で、魂の感じ方を詳細に追っていくような表現のために動作が犠牲にさせられるようなものの方が好むだろうと思います」と書いている。
この手紙を、ボードレールが散文詩集『パリの憂轡』の巻頭に掲げた「アルセーヌ・ウーセイへの序文」からの引用とみる研究者も多い。
「我々のうちいったい誰が、野心に満ちた日々に、律動も脚韻もなく音楽的で、魂の抒情的運動にも夢想の波動にも意識の突発的揺動にも適応するほど、十分に柔軟で十分に対照の激しさを持った、詩的散文の奇跡というものを夢見なかったでしょうか」
「律動も脚韻もなく……」のくだりは、アンドレ・フォンテェナスが書き留めた「野心に満ちた日々」のドビュッシーの言葉を連想させる。
「動機というものから本当に自由になった音楽、あるい
はただひとつの、何ものもさえぎらずけっしてくり返しの
ない、持続的な動機でつくられた音楽、そんな音楽を誰か
が書くといい。いや、ぼくが今に書きますよ」(平島正郎訳)
一八八九年初頭、ローマから帰国して二年目のドビュッシーは、ダンテ=ガブリエル・ロセッティの『選ばれた乙女』にもとづくカンタータやヴェルレーヌにもとづく歌曲集『忘れられた小唄』を発表する。ちょうど同じころ、あるサロンで文学や美術の趣味について尋ねられた際には、「好きな散文家」にエドガー・ポー、「好きな詩人」にはボードレール、「好きな作曲家」にはワーグナーを挙げている。
ところで、ポーの幻想的短編はボードレールが仏訳して象徴派の詩人たちを夢中にさせたし、ワーグナーもまた、一八六一年の『タンホイザー』パリ初演がスキャンダルを起した折りにボードレールが擁護したためブームを巻き起こしたのだから、二七歳のドビュッシーの美学はボードレールの強い影響下にあったといえよう。もっともワーグナーについては一八八九年夏にバイロイトに赴いて以来、批判的な立場をとるようになる。
サロンのアンケートの翌月、ドビュッシーは二年前から手がけていた歌曲集『ボードレールの五つの詩』の作曲を終えている。「露台」は一曲目、「夕べの譜調」は二曲目に置かれ、以下、「噴水」「静思」、「恋人たちの死」と、すべて『悪の華』(三、四曲は第三版)から選ばれている。傑作の常として出版社も初演者も見つからず、支援者が予約募金をおこない、一八九〇年二月に『独立芸術書房』から限定一五〇部で自費出版された。
ショセ・ダンタン街一一番地の『独立芸術書房』はユイスマンス、ヴィリエ=ド=リラダン、マラルメが集い、ジッドの『アンドレ・ワルテルの手記』やピエール・ルイスの『ビリテイスの歌』、アンリ・ド・レニエの『古代ロマネスク詩集』も刊行した象徴派のコロニーのような書店である。
詩集や小説に混ざって楽譜が出版されたのも珍しいことだが、周辺の詩人からこの歌曲集を見せられたマラルメは「その音楽の新しい美」に驚き、芸術座のポール・フォールと企画していた『牧神の午後』の舞台上演のための序曲を依頼している。この企画は実現しなかったが、九四年初演の名曲『牧神の午後への前奏曲』に発展していく。
マラルメの目には止まったが、かんじんの楽譜は一八九三年になっても全部は売れなかったらしい。一八九五年九月の「音楽ガイド」には、「若い娘たちにあまりふさわしくない題材の選択とともに、その扱われ方が出版社たちに大恐慌をもたらした」と書かれている。
ドビュッシーが再びボードレールに取り組むのは、一九一○年月、ピアノための『前奏曲集第一巻』の第四曲「音と香りは夕暮れの大気に漂う」のときである。
三行目がタイトルにとられている「タベの譜調」は聴覚、嗅覚、視覚など五感がないまぜになるさまを歌った詩だが、たとばChaque flurやValse mélancoliqueやLe violonで始まる句が三行ごとに繰り返されている。いわば3拍子のワルッのリズムだが、ドビュッシーのピアノ曲もまた、拡大されたワルツではじまる。
全体は4分の3拍子なのだが、冒頭の4小節のみが点線で3拍子と2拍子に分けられた5拍子で書かれている。ワルツ特有の、2拍目と3拍目の無重力状態を記譜したもので、詩の浮遊感を見事に音楽化している。
いっぽう歌曲の「夕べの譜調」は3拍子で、ナイチンゲールの暗き声を模したピアノの3連音符が浮遊感を演出する。ワーグナーの影響下にあった時期の作品のこととて、ピエール・ルイスの詩による『ビリティスの歌』などに比べるとはるかに歌謡的だ。朗誦風の書法は少なく、半音階で果てしなく上昇するピアノに乗って高らかに歌われる。「憂いはつきぬ円舞曲」のくだりでは、ピアノのアルペッジョが大気中に芳香をふりまく。
「夕べの譜調」は、ドビュッシーの評論にも出てくる。一九〇一年、タデ・ナタンソンが主宰する『白評論』に寄稿しはじめたドビュッシーは、六月一日号の「野外の音楽」で、「夕べの譜調」の冒頭の二行にづき、「花」を「軍楽隊」に置き換えた上でエピグラフに引用している。
「かくてその時となった、それぞれに自らの茎の上で震え
ながら軍楽隊がかすかな余韻を残すとき、さながら振り香
炉のように」(杉本秀太郎訳)
「ボードレールには、よろしく許しを乞わねばならない」という一節ではじまる本文では、コンサートホールのように閉塞した場所ではなく、四つ辻の軍楽隊のように野外で演奏される音楽に可能性を求めつつ、ボードレールの詩句をうまく使って論じている。
「譜和のある夢を長く保たせるために、にぎやかな音を活
用する心がけが大事だ。そういう曲なら、大気と木の葉の
そよぎと花の香気と音楽とのあいだに、えもいわれぬ協同
が成り立つことであろう」(同前)
ボードレールのいわゆる「万物照応」の理念に関していえば、ドビュッシーほどそれを実践した芸術家もあるまい。というのは、音楽芸術そのものが言葉の軛を超え、すべての根源であるポエジーをそのまますくいとることができる特権を有しているからだ。
それまでの作曲技法が、この特権から目をそむけ、形式や書法に固執し、音楽の可能性を自ら狭めていることに反発したドビュッシーは、また、聴覚的自然を無視して書法上の革新に向かおうとする前衛音楽にも危惧の念をいだいていた。
一九〇九年一一月四日、『コメディア』のインタビューでは、「音楽の書法が重視されすぎている」として、批判を表明する。音楽を作ろうとして、自分のまわりに観念をさがす。観念を表現してくれそうなテーマを見つけて展開させ、変形させているうちに、ほかの観念をあらますような別のテーマに行き当たる。こうして形而上学が作られる。だが、そんなものは音楽ではない。
一九一一年二月一一日、『聖セバスチャンの殉教』に関するインタビューでは、次のように語る。
「作曲の秘密など、誰に知れましょう。海のざわめき、地平線の曲線、木の葉のあいだを吹きわたる風、小鳥の鋭い啼き声、そういうものがわれわれの心に、ひしめき合う印象を与えます。すると突然、こちらの都合などには少しも頓着なしに、そういう記憶の一つがわれわれのそとに拡がり、音楽原語となって表出するのですよ」(同前)
若き日に耽読したボードレールの「魂の仔情的運動にも夢想の波動にも意識の突発的揺動にも適応する」詩的理念が追求されていることがよくわかる。
ドビュッシーはまた、ボードレールが仏訳・紹介したエドガー・アラン・ポーの『アッシャー家の崩壊』に強く惹かれ、生涯にわたって音楽化をもくろんでいた。
一八九〇年一月、アンドレ・シュアレスがロマン・ロランに当てた書簡によれば、当時のドビュッシーは『アッシャー家』をはじめとするポーのいくつかの短編に想を得て交響曲を作曲中だった。『ボードレールの五つの詩』が刊行されるのはそのひと月後のことだ。
一八九三年六月の書簡では、「私の送る日々は、エドガー・アラン・ポーの主人公の日々に似て、煤け、暗く、しんと静まりかえっています」と、ボードレール訳の『アッシャー家』をそのまま引用している。
一九〇八年六月には、自ら台本を書いて『アッシャー家の崩壊』にもとづくオペラに着手したが、作曲は遅々として進まなかった。
一九一一年一二月一八日、親友のゴデに宛てた手紙で彼は次のように嘆く。
「いかにも仕事をした、という感じで、『縫い目』がみえすぎるのです。先に進めば進むほど、この『騙し耳』にすぎない故意の無秩序にがまんがならなくなります。(中略)感動の裸身に達するためには、どれだけ多くのものを犠牲にしなければならないことでしょうか」
ところで、この「la chair nu de l’emotion」とは、ボードレールの「Mon coeur mis à nu」を思い起こさせるが、ロックスパイザー『ドビュッシーその生涯と思想』によれば、この一節自体が、ポーの「My heart laid bare」から想起され
たものだという。
『アッシャー家の崩壊』は残念ながら未完に終わったが、パリ国立図書館にはドビュッシーが所蔵していたボードレールの翻訳書が保存されており、随所に引かれたアンダーラインが思いの深さを物語っている。