ストラヴィンスキーとドビュッシーの危うい関係(レコード芸術 2019年5月号)

ストラヴィンスキーとドビユッシーの蓬遁は、1910年6月25日、《火の鳥》の初演時に遡る。ディアギレフから若きロシアの作曲家を紹介されたドビュッシーは、作品について愛想のよい感想を述べたあと、彼を夕食に招待した(有名なツーショット写真は、このときに撮影されたものかどうか、はっきりしない)。7月8日には、デュランへの手紙ではじめてストラヴィンスキーに言及し、「(《火の鳥》は)完壁ではないが、とてもよい面があります。音楽は踊りの従順な召使ではないし、ときどきまったく異例なリズムの一致を聴くことができます!」と称賛している。

1911年6月16日、《ペトルーシュカ》初演3日後に《火の鳥》のスコアを贈られたドビュッシーーは、11月4日、返礼に神秘劇《聖セバスチャンの殉教》のスコアを贈り、狂喜したストラヴィンスキーは「私があなたの創造の才をいかに崇拝しているかをご存じなら、どれほどの喜びが私を襲ったかわかるでしょう」と書いた。12月18日、友人のロベール・ゴデに同じスコアを贈ったドビュッシーは、「音の色彩とリズムに本能的な才能を発揮する若いロシアの音楽家」はきっとあなたの気に入るだろうと推奨している。

ドビュッシーのストラヴィンスキー礼賛は、1912年春に《ペトルーシュカ》のスコアを贈られたとき最高潮に達した。「あなたのおかけで、私は、ペトルーシュカ、恐ろしいムーア人、魅力的なバレリーナを道連れに、素晴らしい復活祭の休暇を過ごしました。(中略)そこには一種の音楽的魔術、機械の魂が魔法によって人間的となる神秘的な変化が見出されますが、その魔法を創造されたのは、今までのところあなただけであるように思われます」(4月13日)

ドビュッシーの語法にも魔法がかけられた。たとえば、1912年から13年はじめにかけて書かれた《前奏曲集》第2巻。第1曲〈霧〉にはハ長調と嬰へ長調をほぼ同時に鳴らす、いわゆる「ペトルーシュカ和音」が使われているし、第4曲〈妖精はよい踊り手〉の黒鍵と白鍵の交替は、第2場〈ペトルーシュカの部屋〉の慟哭シーンを連想させる。

1912年6月はじめには、評論家ルイ・ラロアの別荘で作曲者と《春の祭典》を試奏するという歴史的大事件が起きる。「彼は新作《春の祭典》の4手ピアノ用簡約スコアを携えて来た。ドビュッシーは、私が今もなお所有しているプレイエル製のピアノで低音パートを弾くのに同意した。(中略)時々、省いた部分を口ずさみながら、彼は友人の敏捷で柔らかい手を音の横溢の中に引きずり込んだが、友人の方は難なく付いて行き、困難をものともしない様子だった」(ルシュール『伝記クロード・ドビュッシー』)11月7日の手紙でドビュッシーは、娘のシュシュが「虎たちの遠吠えを誘うような《ペトルーシュカ》に基づいた幻想曲を作曲しました」と報告し、「あなたの《春の祭典》をラロワのところで演奏した想い出がまだ私には残っています……。それは美しい悪夢のように私に取りついて離れず、その物凄い印象を再び味わおうと私は空しく試みています」と打ち明ける。

「美しい悪夢」は彼の作曲にも影響を及ぼしたのだろうか。ピエール=ローラン・エマールやミシェル・ベロフが《前奏曲集》第2巻の第9曲〈交替する3度〉に《春の祭典》からの引用を指摘している。たしかに〈祖先の儀式〉のメロディと〈3度〉の左手の連なりは、キーこそ違え共通しているが、時系列の問題がある。《前奏曲集》第2巻で当初予定していたキップリング象のトーマイ』で書くのがむずかしいことを悟り、代わりになるものを作曲することを表明したのが1913年1月7日、楽譜の刊行が4月19日、ドビュッシーが《春の祭典》のゲネプロに接したのが5月28日。ストラヴィンスキーから連弾譜を贈られたのが6月9日、友人のアンドレ・カプレに「あなたが無関心ではいられない《春の祭典》のスコア読みを、あなたのために取っておきます」と書いたのが6月23日。

引用するならこの後のはずだが、ドビュッシーの天賦の聴覚は、ただ一度弾いただけの音楽をも記憶にとどめた可能性がある。ハバネラ事件がよい例だ。ラヴェル《耳で聴く風景》の初演時、〈ハバネラ〉がいたく気に入ったドビュッシーは楽譜を要求し、それを返さなかった。1903年に《版画》が発表され、〈グラナダの夕暮れ〉を聴いたラヴェルは、盗作されたと思い込んだが、当の楽譜はドビュッシーの死後、他の楽譜の間にはさまれ、ピアノの後ろに落ちているのが発見された。楽譜を調べた形跡はなかったという。

いっぽう、1913年7月に着手されたバレエ音楽《おもちゃ箱》は、《春の祭典》より《ペトルーシュカ》の影響が顕著な作品だ。人形に生命が与えられ、恋の三角関係をくりひろげる筋書きそのものが《ペトルーシュカ》そっくりで、ドビュッシーが容易に作曲を承諾した理由もわかる。ロシア民謡やポピュラー音楽、ウィンナ・ワルツなどさまざまな音楽が引用される《ペトルーシュカ》同様、《おもちゃ箱》にもグノー《ファウスト》、フランスの童謡やシャンソン、メンデルスゾーン〈結婚行進曲〉まで、あらゆる種類の音薬がパッチワークのようにはめこまれている。

《ペトルーシュカ》は手放しで褒めたドビュッシーだが、自作のバレエ音楽《遊戯》の2週間後に初演された《春の祭典》についてはどこかアンビヴァレンツだ。初演当日にはカプレに「《春の祭典》はきわめて荒々しいものです……あるいはこう言った方がよければ、それは近代的な快適さをすべて備えた野生の(未開の)音楽です!」と書いた。ジャン・オーブリーの回想によれば、その翌日、ドビュッシーは「ともあれ、フランス音楽はこういうふうには作らないね!」と漏らしたという。作るべきではないか、作れないのか、行間を読みたくなる。ストラヴィンスキーは、「若い世代が熱狂的に受け入れた《春の祭典》をドビュッシーは咀噛しきれず、とまどいを感じていたのではないか」と推測している。

1915年7月、2台ピアノのための《白と黒で》第3曲をストラヴィンスキーに捧げたドビュッシーだが、同年10月14日付の手紙では「(ストラヴィンスキーは)危険なほどシェーンベルクの側になびいています」ともらす。ところで彼は、《月に愚かれたピエロ》の強い影響下に書かれた《3つの日本の抒情詩》を絶賛しているのだが。

1917年5月25日、シャトレ座でロシア・バレエ団の公演に接したドビュッシーは、ディアギレフへの礼状で「《ペトルーシュカ》は断固として傑作」と書いた。翌年3月に世を去ったドビュッシーにとって、これが最後のストラヴィンスキー体験となった。

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ストラヴィンスキーとドビュッシー
〈交替する3度〉81小節〜にある《春の祭典》からの引用と言われる箇所。左手のテヌート記号が付されている音符をたどると〈祖先の儀式〉のメロディとなる

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