大田黒元雄(おおたぐろ・もとお)(1893〜1979)の名をきいたことのある人は、よほどの音楽通だろう。
日本の音楽評論の草分けだが、戦後はNHKラジオ『話の泉』に出演したぐらいで、東京都杉並区荻窪の広大な邸宅(現大田黒公園)で悠々自適の生活を送った。
2015年は、その大田黒が自宅のサロンで『ピアノの夕べ』を開催してからちょうど百年にあたる。メンバーは、のちの音楽評論家で、日本音楽コンクールの審査員長やショパン協会会長をつとめた野村光一、音楽之友社を創設した堀内敬三、永井荷風の台本でオペラ《葛飾情話》を書いた作曲家・菅原明朗など、新進の音楽青年たちだった。
大田黒元雄は実業家の家に生まれ、東京音楽学校(現東京芸術大学)のペッツォルトについてピアノを学んだ。1912年にはロンドンに遊学して多くのコンサートに通い、楽書や楽譜を蒐集する。14年7月に一時期国している間に第1次世界大戦が勃発したので、再渡英を断念。貴重な資料をもとに、15年5月、山野楽器から『バッハよりシェーンベルビ』を刊行。このときまだ22歳だった。
15年といえば、シェーンベルクは『月に愚かれたピエロ』を発表してまだ3年、12音技法への途上期だったのだから、先見の明には驚かされる。山野楽器の紹介で大田黒邸を訪れた野村は、ピアノの上におびただしい楽譜を発見する。そこで野村は、ドビュッシーやフォーレなどフランス音楽、スクリャービンやラフマニノブなどロシアの音楽、グリーグ、シベリウスなど北欧の音楽を知ることになる。
これらの楽譜を調べるだけではなく、自分たちの手で実際に音出ししてみようじゃないかというのが、『ピアノの夕べ』のはじまりである。
記念すべき第1回は、15年12月18日に開かれた。最初にグリーグ「抒情小曲集」から〈春に寄す〉を演奏したのは、堀内敬三。ついで、野村がドビュッシー「子供の領分」から〈小さな羊飼い〉とイリンスキーの「子守歌」を弾き、スクリャービンの前奏曲やシベリウスのワルッ、ドビュッシーの「版画」「牧神の午後への前奏曲」などは大田黒が演奏した。
当時のクラシック界はドイツ音楽一辺倒だったため、珍しいプログラムは有識者の注目を集め、東京音楽学校の先生で岩波書店から『リッヒァルト・ワーグナー』を上梓したばかりの田村寛貞も聴きにきたものだから、3人ともあがってしまったと野村は回想している。これに懲りたか、以降の演奏はすべて大田黒がおこなうようになる。
16年12月9日、自宅のサロンで腕を磨いた大田黒は、東京帝国大学学生キリスト教育会館(現YMCA寮)で初のリサイタル『スクリャービンとドビュッシーの夕べ』を開いている。野村が電気係、堀内は譜めくりを担当したが、スイッチは漏電するので電気係は命がけ、堀内は緊張して譜面をめくる手がふるえっぱなし。楽屋では、演奏中にスチーム管から水が吹き出て大恐慌をきたしたという。
洋楽黎明期の音楽青年たちの熱気と心意気が伝わってくるエピソードだ。