四月から朝日新聞の書評委員をつとめている。レギュラーではないが、同じく朝日の朝刊文化面でも、クラシックのコンサート評を二本ほど書いた。同じ評のようだが、この二つの作業は、実はずいぶん違う。
書評の場合は、基本的に共感した本、紹介したいと思った本を選ぶ。選書した時点ですでに評価しているわけだから、ポジティヴな評が多くなる。対してコンサート評は、この演奏会について書いて下さいと依頼される場合が多い。実際に、自分のリサイタルの評を書いてくれたある評論家にお礼を言ったら、編集部に頼まれただけだという返事が返ってきて、何となく鼻白んだおぼえがある。聴いてみてフィーリングが合わなかったりすると、どうしてもちぐはぐなことになる。ウェットな表現が好きな耳とドライな表現が好きな耳では、同じ演奏に対して評価が正反対になる可能性もある。
コンサート評の一番の問題は、評する側と評される側に断絶が生じやすいことだろう。書評家は、自分でも文章を書いたり本を出したりするが、音楽は分業で、コンサート評を書く演奏家はめったにいない。
演奏家は、とくにピアニストなど、小さいときから修業に明け暮れ、オーディションやコンクール、音高や大学入試でいやというほどしぼられ、卒業してからも留学先で音楽上の壁や人種の壁にぶつかったり、国際コンクールで挫折したり成功したり、落ち込んだり舞い上がったりしながら何とか勉強をまとめ、帰ってきてやっとリサイタルを開く。
いっぽう、評論家はそれほど層が厚くないので、大学院の美学や音楽学科を卒業してすぐに評論活動をはじめてしまう人もいるときく。留学経験どころか著訳書もまだなく、書いたのは論文だけというケースだってなくはない。別に、経験を積んだからといってそれがそのままよい演奏やよい評論に結びつくわけではないのだが、それにしても、あまりのキャリアーの違いに何となく割り切れない思いがするのは私だけだろうか。
書評の場合は、そうした問題は一切起きないだろう。自分でもいろいろな経験をして、何冊か本を書くなどある程度の仕事をしなければ、なかなか書評のおよびはかからない。つまり、書評家のキャリアーと文筆家のキャリアーが合致している。
しかし、いざ自分で書評を書く立場になってみると、これが予想以上に大変だった。たとえば、ある本に惹かれ、その魅力を語りたいと思ったとする。コンサート評なら、その演奏家のこれまでの活動、演奏曲目のこと、作曲家の歴史的な位置づけなど、ある程度インプットされている。勿論、当日の演奏をよりよく享受するために、CDを聴いたり文字資料を読んだりするが、少なくとも一から準備する必要はない。
書評の場合は、そうはいかない。高校から音楽の方面に進んだ私は、体系的な読書というものをしたことがなく、大学で文学史を教わったこともないから、基本的な知識が絶望的に欠落している。その本の著者のこれまでの仕事、テーマについて書かれた別の著者の本、テーマや特殊用語についてのジェネラルな知識。欠落を埋めるために図書館で借りてくる本は、多い時は十数冊に及ぶ。
くだらないことでつかえてしまうこともある。倉橋由美子さんの連作短編集『よもつひらさか往還』を紹介したときのこと。「髑髏小町」という短編の中で、主人公のもとに宅急便で送られてきた髑髏の取り扱い説明書に、こう書いてあった。「オブジェ風に花を活けることもできますが、眼窩から薄が生えるような活け方をすると、『あなめあなめ』と痛がります」。この「あなめあなめ」の意味がわかるまでに大分時間がかかった。
そんなことなら音楽の本ばかり選べばよいではないか、と言われるかもしれないが、これがまた簡単ではないのだ。たとえば、作曲家の池辺晋一郎さんの『モーツァルトの音符たち』という本をとりあげたことがある。池辺さんは著名な作曲家だから、モーツァルトの天才ぶりを証明するために、自分でわざと凡庸な例を書いて、モーツァルトの音楽と比較してみせる。音楽的な力学のようなものも、楽譜上の例で説明される。楽譜の読める人にはこれ以上ないほど面白い本なのだが、楽譜の読めない人には、これまた化学式が並んでいるのと同じようにチンプンカンプンだろう。私は仕方なく、モーツァルトの曲と池辺さんの作成した凡庸な例を口じゃみせんで記してみたが、面白さがどこまで伝わったか自信がない。
かといって、コンサート評の方が楽かというと、断じてそんなことはない。コンサート評が書評と決定的に違うところは、音楽は聴いたそばから消え去ってしまうということだ。本のように読み返すということができないので、準備の方も前もってしておかなければならない。体調も、その瞬間に向けて整えておかなければならない。食べすぎで眠かったり、逆に不眠で頭が働かなかったりしたら、演奏家の発するものをうまく受け止められないかもしれない。演奏はなまものだから、どんな事態が起きるかわからない、それにも柔軟に対応できるような柔軟な精神状態でいなければならない。これを書評にたとえるなら、夜の七時から八時半ぐらいまでの間、指定された座席に出向いて本を読み、一回読んだだけですぐに書評を書けと言われるようなものだ。
書評は、読んだあとで本屋さんに行って本を買うことができるから、購買に直接むすびつく。しかし、コンサート評の場合は、評が出たときはすでにコンサートが終わってしまっているので、直接の影響はない。公演の主催者たちがコンサート評を読んでいて、その後演奏の依頼が爆発的に増えるということも、あまりないようだ。少なくとも私の場合は、何回か新聞に批評が載ったことがあるが、演奏の依頼は一度も来なかった。
本は、自分が一番リラックスする状態で読めばいいが、コンサート評は会場に出むかなければならない。たいてい、主催者側から招待状が送られてくる。音響は、会場によっても、会場内のポジションによっても違う。招待席というのは、だいたいそのホールの中央部分にとってあることが多い。しかし、演奏される楽器によってホールの最良ポイントは変わるし、ときには、一番安い天井桟敷の方が音がよかったりするものだ。招待席で聴き始めて音響が今ひとつの場合、席をかわるべきか、同じ条件でプログラムを聴き通すべきか、悩む。こんなとき、書評だったら、一回リセットして、もう一度よりよいシチュエーションで読み直すことができるのだけれど。
実際にコンサート評を書くときも、書評よりも条件はきびしい。書評だと、少し多めに持って帰った本をゆっくり検討し、どの本を書評するか決めてから実際に書くまでに二週間ぐらいある。その間、ざっと原稿を入れて少し寝かせておいたり、文章を推敲したりする余裕がある。しかし、コンサート評の場合は、前の晩に聴いて帰ってきたものをすぐに文字にし、翌日のお昼には締め切りである。校正の方も、電話で口頭で伝えるか、活字にしてもらったものを二、三時間でなおす必要がある。その日の夕方降版だからだ。
コンサート係の記者によれば、昔はコンサート評も二週間ぐらい余裕をおいていたのだが、やはり本と違ってイヴェント的な要素があり、ジャーナリスティックな扱いになる。従って、あまり日にちがたってしまったコンサートの評は新鮮味に欠けるのだそうな。
それでなくても、感覚的なものを言葉にするのは大変な作業である。そのとき自分がどう感じたか、どのようなところに感動したか、あるいは違和感をおぼえたか。書評なら本文を引用してしまえばすむところ、コンサート評ではいちいち音を言葉に翻訳しなければなければならない。しかも、書評なら本が目の前にあるのだが、評すべき音たちははるか遠くに過ぎ去ってしまっていて、記憶の引き出しをひっくり返さなければならない。
私がピアノの専門家なので、ジャンルによって聴き方にばらつきが出るのも難しい点のひとつだ。よく知っている作曲家、ピアノ曲の場合は、どうしても点が辛くなる。あるいは、既成概念にしばられやすい。逆に、よく知らない楽器や作曲家の場合、ききどころのポイントがわからなくて、妙に点が甘くなるかもしれない。
これは書評でも言えることで、音楽の本を評するときの私は、どうしてもキムズカシクなってしまう傾向がある。対して小説などを読むときは、もともと自分が小説が書けないせいもあって「創作家」に大いなる畏敬の念をいだいているから、素直に感動するし、何のはばかることもなく、そのことを文章にしてしまう。創作の専門家の方の目から見たら、何とまぁ、お気楽な書評よ、と思われるかもしれない。
つまり、一番求められるコンサート評は、時間芸術なりの制約が多く、次に求められる音楽書の評論は、こちらがいろいろと制約をつけてしまう。一番書評しやすい音楽以外の評論書や小説は、基本的な知識がないので調べるのが大変。
こんな風に困ったことばかりだが、ここでぶちあたる問題は、ひとつひとつが音楽と文学の境界領域にかかわる格好のテーマになる。双方にかかわってああでもないこうでもないと言っているうちに、それぞれのジャンルのすばらしさも身にしみてわかってくる。
同時進行する書評とコンサート評は、私の体験的比較文化論の修業の場だ。