【ライナーノーツ】横山幸雄「プレイエルによるショパン・ピアノ独奏曲全曲集11」

机の上で多くを書いたシューマンに対して、即興演奏を基盤とするショパンの語法には、彼自身のピアノ奏法が深くかかわっている。読み解くヒントとなるのは、ジャンニジャック・エーゲルディンゲルが編纂した「弟子たちから見たショパン』(音楽之友社)で、ここには弟子たちの証言や、ショパンが彼らのために書きかけていた教本の草稿が紹介されている。

「5本の指は長さもつき方も違う」ことに注目したショパンは、すべての指を均等にコントロールしようとする当時のピアノ教育法に警鐘を鳴らした。彼が編み出したのは、中央の長い指を黒鍵に、両端の短い指を白鍵に置く独特の指のシステムである。各指の特性を活かしたこの配置によって、それぞれの指は 肩からの重さを自然に鍵盤に伝え、支点の移動によってスムーズに運指できるようになった。

同じ考え方からショパンは、すべての指が白鍵に置かれるハ長調の音階は「もっともむずかしい」として、 人指し指、中指、薬指が黒鍵に乗る嬰へ長調や変二長調の音階から練習をはじめるようにと指導した。チェルニーなど多くのピアノ教本は、一般的に「もっともやさしい」ハ長調からはじまり、徐々にシャープやフラットが増えていくが、ショパンは、教材に使ったクレメンティの教本でも中盤のものを最初に 課題に出すのが常だったという。1920年代にモスクワ音楽院教授に就任し、ロシアン・ピアニズム隆盛のもとをつくったゲンリッヒ・ネイガウスは、こうした発想を「コロンブスの卵」と絶賛している。

ショパンは、この驚くべきアイディアを記した草稿を、後輩の作曲家アルカンと姉のルドヴィカに託した。ルドヴィカが亡くなったあと、あるポーランド人ピアニストが受け継ぎ、その人が亡くなったときに競売にかけられ、コルトーが落札した。コルトーはその一部を自身のピアノ教則本に記したが、彼の基礎練習はなぜかハ長調からはじまっている。ピアノ教育は門下制を基盤としてきたため、ある時期までは革新的な奏法が伝わりにくい構造をもっていたのも事実である。

ショパンの指のシステムは、解釈するほうにとっても「コロンブスの卵」なのである。 ショパンの楽譜を見て、どうしてこんなにシャープやフラットが多いのだろうと不思議に思っていた人は、 合点がいくだろう。ショパンのピアノ曲には黒鍵が多いので苦労していた人も、3本の長い指を支点にし、 他の一短い指との機能を分けるというショパンの考え方を知れば、ずっと楽に弾けるようになるだろう。
公開されてほぼ一世紀。「コロンブスの卵」は、さらなる研究と開発を待っている。

プログラム・ノート

■3つのマズルカ 作品50
マズルカはショパンが生涯にわたって書き、心情を 託すことのできたジャンルである。作品50は1841年〜42年に作曲された。第1番ト長調は、躍動感に満ちた 明るい作品。第2番変イ長調は、甘美な旋律が印象 的な主部と舞踊的な中間部から成っている。第3番嬰ハ短調はマズルカとしては規模が大きく、カノン風に開始するマズルカ主題が、さまざまな和声の変化をとも ないながら精緻なレースのようにつむぎあげられる。

■即興曲第3番 変ト長調 作品51
ショパンの天分は即興演奏にもっとも発揮された。1842年作の第3番は即興曲の中ではあまり演奏され ないが、唐草模様のようにからみあう三連音符は絶えず色合いを変え、その行間を読みたくなるという意 味でいかにもショパンらしい作品と言える。

■2つのノクターン 作品55
1843年作。第1番ヘ短調はゆったりした歩みの中で 憂いに満ちた旋律が奏でられる。中間部は一転して、激情をほとばしらせる。第2番変ホ長調はより即興的で、バルカローレ風の伴奏に乗ってしなやかな旋律が どこまでものびひろがっていく。

■スケルツォ第4番 ホ長調 作品54
スケルツォはもともと大規模なソナタの幕間に置かれた「冗談」のような意味あいをもつ。1842年に書かれた第4番は、ショパンのスケルツォの中でもっともその 性格を反映させており、躍動するリズムとロココ風の洒脱さが印象に残る。

■子守歌 変ニ長調 作品57
1843年作。ショパンが可愛がっていた歌手ポーリーヌ・ヴィアルドーの娘のために書かれたと言われている。当初の題名は「変奏曲」で、低音部のオスティナートに乗って、いくつしむような旋律が次々に変奏され、美しい音響空間をつくりだしている。

■ソナタ第3番 ロ短調 作品58
ショパンのソナタは、習作時代に第1番、最盛期に第2番が作曲され、第3番は1844年に書かれた。シューマンが「常軌を逸した4人の子供をひきまとめた よう」と評した2番に対し、3番はより有機的な構築をめざしているが、なお抑えきれない即興性にこそショパンの魅力がある。第1楽章はソナタ形式で、堂々たる第1主題、朗々と歌われる第2主題から思いがけず夜 想曲風のパッセージが生み出される。第2楽章は技巧的なスケルツォ、第3楽章は付点のリズムをともなう夢のように美しいラルゴ。第4楽章ロンドは再現のたびに 増幅される伴奏形が興奮を誘い、炸裂するクライマックスを迎える。

2011年4月12日 の記事一覧>>

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