リヒテルの耳
ベッドで『リヒテル』(B・モンサンジョン)をぱらぱらめくっていたら、こんなくだりにぶつかった。
一九七一年二月某日。シューマン『ピアノ四重奏曲変ホ長調』作品七七。演奏はパレナン弦楽四重奏団とピエール・バルビゼ。
著者が、「これで自分の伝記をつくってくれ」と託された音楽日誌の一節だ。リヒテルのコメントは、「良いレコードだ。ピエール・バルビゼは、たぎりたつ頭脳と正確無比の指を併せ持つ、間違いなく本物の音楽家だ」
バルビゼは、長くマルセイユ音楽院の院長をつとめたピアニストで、私の留学時代の恩師である。フランスに取材に行って未亡人にきいた話を思い出した。
あるとき、リヒテルがマルセイユにやって来た。リハーサル会場として音楽院が指定され、バルビゼがホールのグランドピアノを提供しようと申し出ると、リヒテルは辞退し、しっかりしたアップライトで十分です、と言ったという。
漏れ聞こえてくるリヒテルの練習に、夫妻は耳をそばだてた。シューマン『交響的練習曲』のある変奏を何回も、何回もくり返す。しかも、信じられないようにゆっくりなテンポで。練習後、リヒテルは「りんごを下さい」と言っておいしそうに食べた。
その夜、オペラ座でのリサイタルはすばらしかった。『交響的練習曲』のくだんの箇所は、阿修羅のようなテンポで、全くミスなしに弾かれた。
「新しい曲を習得するときには、純然と反復的な方法を採ります」とリヒテルは語る。最も煩瑣なパッセージを探し、そこを優先的に、機械的に練習する。最初のページがマスターできないと、次のページに進まない。「どんなに危ういパッセージでも、百回もさらえば、容易に弾けるようになります」
来日する欧米のピアニストに、どんなピアニストが理想ですか?ときくと、ほとんど例外なしにリヒテルという答えが返ってくる。リヒテルは、たとえばキーシンのように周到な教育システムから生まれたわけではなく、きわめて特異な経緯をたどった演奏家である。「理想のピアニスト」と同じような環境で修行したいと思ったら、十八歳まで正規の音楽教育を受けず、いきなり歌劇場でコレペティトゥーア(練習ピアニスト)をつとめ、十九歳で自主リサイタルを開き、二十二歳でモスクワ音楽院に行って、ネイガウスの前でショパンの『バラード第四番』を弾かなければならないだろう。
チェルニーなんて弾いたことがない、とリヒテルは言う。音階の練習もしなかった。最初に弾いたのはショパンの『ノクターン第一番』だった。ベートーヴェンのソナタ『テンペスト』も弾いた。それから、ワーグナーやヴェルディ、プッチーニのオペラのピアノ用編曲を片っ端から弾き、母親に早く寝ろと叱られた。多くのピアニストの卵が、自分の果たせなかった夢を息子や娘に託す両親の犠牲になっているというのに。
リヒテルは、すさまじい記憶力の持ち主だった。
「ロシアであれ、外国であれ、どこに行っても──流浪の民の気質なものでじつにいろいろな場所に行きました──数知れぬ人に会いました。その人たちの姓がファースト・ネームとともに、頭のなかに列をなして並んでおり、たえず思い出さずにいられません。」
同じようなせりふをどこかで読んだ。本と同時期に出たモンサンジョンの映画『リヒテル〈エニグマ〉』の冒頭のシーンだ。八十歳、死の二年前のリヒテルは、憔悴しきった顔で「記憶力がよすぎてそれが苦痛だ」と語っていた。
本の前半「ありのままのリヒテル」は、映画の内容と重なりあっている。むしろ、ありのままを「語る」リヒテルとすべきだろう。普通のピアニストは、ありのままなんか語れない。次から仕事が来なくなるからだ。
八十回分のリサイタルのプログラムを記憶していたにもかかわらず、リヒテルは七〇年代の半ば、つまり六十代にさしかかるころから楽譜を見て弾くようになった。聴覚の障害である。それまでは耳で聴くだけで何でも再現できたが、音が一音、ときには二音も高くきこえ、運指にも影響する。実は、リヒテルだけではない。アリシア・デ・ラローチャも、あるときから音が一音高く聞こえていた。しかし、彼女は八十歳で引退するまで暗譜で弾き通した。指が覚えていたからである。幼児期に基礎をたたきこれまていないリヒテルは、曲を目や耳で覚える。だから、楽譜を見る必要があったのではないだろうか。
そんな推理をしつつ、枕元から河島みどりの本を引っ張り出す。リヒテルの通訳を長くつとめた河島は、ああは言ってもリヒテルはちゃんと暗譜で弾けたのだ、と回想している。その証拠に、ある演奏会で譜めくりが一ページとばしたときも、リヒテルは意に介せず平然と弾きつづけた。
演劇が好きで、九歳で八幕十五景の戯曲をつくったリヒテルは、ピアノ演奏でも演劇的な効果をねらう。たとえばリストのソナタは、椅子に座ってすぐに弾きはじめてはいけない。身じろぎもしないでゆっくり三十まで数える。
「聴衆はパニックに陥ります。──『いったいどうしたんだ。気分が悪いのか。』そのとき、そのときはじめて、ソを鳴らします。こうして、この音は、望んだとおりに、まったく不意に鳴るのです。もちろん、そこには一種の芝居があります」
演奏は見事でも、すべてを皿に盛るように出してしまうピアニストが沢山いる。いい演奏なのだが、演出が足りない。不意なもの、思いがけないものこそが感銘を生むのに。
この言い回しもどこかで読んだ。再び音楽日誌のページをめくる。
一九七六年七月二日、トゥール。ラドゥ・ルプー演奏会。「料理はたしかに立派な大皿に盛って出されるが・・・」
鉱脈を掘り当てた気分だ。他のところを読みながら付箋を貼り、ピアニスト別にしるしをつける。六百ページもある本は重く、ときどき胸に乗せた鉛筆がころがり落ちる。
ポはポリーニ、ミはミケランジェリ、グはグールド。そのころ流行していた主知主義的な演奏はほとんど認めていない。若いコチシュを絶賛し、同時代人ヴェデルニコフの弾くドビュッシー『十二の練習曲』をくり返し聴く。
「こういうディスクがその真価に見合う名声を得ていないのは心の痛むことだ」
簡潔な言葉の連鎖からリヒテルの「耳」が浮かびあがってきて、バルビゼへの賛辞と結びつく。一緒に本物を探そう。バルビゼの口癖を思い出した。