「ドビュッシー生誕150年 印象派か象徴派か 」(朝日新聞 2012年11月4日)

東京のブリヂストン美術館で「ドビュッシー、音楽と美術印象派と象徴派のあいだで」が7月から3カ月間開催された。

パリの美術館との共同企画だが、ブリヂストンの所蔵品も展示されているため、より印象派寄りの「印象」がある。

ドビュッシーの定義は、いつも印象派と象徴派の間をさまよっている。印象派は絵画上の運動で、遠近法を捨てて画面を平面分割し、パレットから暗い色を追放した。1874年に最初の展覧会が開かれ、ドビュッシーがローマ賞を得た1884年には、ほぼ終焉を迎えていた。

いっぽう象徴派は詩の運動で、言葉から可能なかぎり意味をそぎ落とし、音楽性とリズムを重視した。こちらは、まさに1884年に出たヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』によってにわかに台頭し、マラルメの火曜会に多くの若い詩人を集めた。

ドビュッシーも、火曜会はじめ象徴派のサロンに顔を出し、詩人たちと共作を試みている。

ドビュッシー音楽について印象派のレッテルが定着したのは、1901年に初演された管弦楽のための「夜想曲」らしい。この公演には、「鳴り響く音の斑点」でつくられ、「これ以上印象主義的な交響曲は想像しようがない」という批評が出た。

たしかに、調性感を曖昧にし、輪郭をぼかし、線(旋律)より塊(和声)で構成するなど、ドビュッシーの技法は印象派との共通点が多い。しかしこの作品のイメージ源は、マラルメの火曜会に出入りしていたアーンリ・ド・レニエの詩なのだ。

マラルメの詩にもとづく「牧神の午後への前奏曲」、ヴェルレーヌに想を得た「月の光」。ドビュッシーがとりわけ霊感を得たのは象徴詩だった。

外面強調しすぎ

この問題に真正面からとりくんだのがステファン・ヤロチニスキ『ドビュッシイ印象主義と象徴主義』である。「『印象主義』という公式=慣用語」は、彼の音楽の外面を強調しすぎ、「『牧神の午後』の音楽家がもたらした革新的貢献を、正当な価ではかるさまたげとなった」という論旨には説得力がある。

今年刊行されたアンドレ・シェフネル『ドビュッシーをめぐる変奏』の訳書には、「印象主義から遠く離れて」という副題がつけられている。ここで語られるドビュッシーは、エドガー・ポーの怪奇小説『アッシャー家の崩壊』に心惹かれ、「恐怖の演劇あるいは残酷の演劇」をめざしてオペラ化を試みる「おどろおどうしい人物」である。

しかし、教育やメディアによってすり込まれてきた「印象主義音楽の創始者」をくつがえすのは、並大抵のことではない。

作曲家の抵抗感

ドビュッシーの日本受容を論じた佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人』によれば、導入期では印象派と象徴派はともに海外の新思潮としてとらえられていた。永井荷風は1908年に「早稲田文学」でドビュッシーをとりあげ、「印象派の画に見るべき詩景、表象派の詩篇にのみ味われべき情緒の発現である」と書いている。

同じ年、いかにも「印象派ふう」と誤解されそうなピアノ組曲「映像」を作曲中のドビュッシーは、楽譜出版社への手紙で「私は、あのバカ者どもが呼ぶところの『印象主義』とは全く『別のもの』をつくろうとしているのです」と打ち明けた。

没後100年まであと6年。ドビュッシーの音楽から「印象派」のレッテルが剥がされる日はくるのだろうか。

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