フランス近代の大作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918)は、ジャポニズムを採り入れた最初の西洋音楽家ということができる。
絵画の世界では、ゴッホやゴーギャンが浮世絵をモティーフに描き、印象派の画家たちは遠近法を回避して浮世絵の平面分割法を参考にした。
ドビュッシーもまた日本の美術が大好きで、交響詩『海』の表紙は、葛飾北斎の「神奈川沖波裏」の図柄で飾られたし、ピアノ曲『金色の魚』は、緋鯉が泳ぐ蒔絵の箱にイメージを得て作曲された。
ドビュッシーは、日本美術の熱心な蒐集家でもあった。サロンの暖炉の上には仏像が置かれ、書斎の壁には喜多川歌麿の浮世絵が飾られていた。仕事机のまわりにも、竹製の矢立てや鍋島のインク壺、鯉の模様のたばこ入れなどこまごました収集品が置かれていた。 唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』の登場人物にちなんで「アルケル」と呼ばれていた蛙の置物も日本製である。
ドビュッシーは、作曲技法的にも積極的にジャポニズムを反映させている。ハイドン、モーツァルトなどウィーン古典派以来、西洋音楽のベースになっていたのは、絵画では遠近法に当たる機能和声法という技法である。調性を決定づける主音の上に積み上げたトニック(主和音)、ドミナント(属和音)、サブドミナント(下属和音)という三種類の和音を基礎に、さまざまな転調を駆使して立体的に楽曲を構成する。
しかし、ドビュッシーが作曲デビューした19世紀末には、半音階を多用するワーグナーの影響で機能和声法がゆらぎはじめていた。ドビュッシーはその傾向をさらに推し進め、東洋風の五音音階、全音音階など移調の限られた音階を積極的に採り入れ、調性感を曖昧にしようとした。リズム的にも、三拍子、四拍子といった西洋風の規則的な律動を避け、東洋的な付加リズムやポリリズムを愛用した。
結果としてドビュッシーの音楽は、きわめて静謐な中に点描風に置かれた音が長く余韻をひびかせ、音楽の流れもゆるやかで並列的な印象を与えるものになった。
ドビュッシー音楽の日本性は、こうした表面的な形式にとどまらなかった。内面的にもドビュッシーは、あたかも日本精神をもって作曲したように思われる。
唯一のオペラ『ペレアスとメリザンド』を作曲したとき、ドビュッシーは、従来のオペラの形式から脱却しようと試みた。
イタリア歌劇など通常のオペラは、音楽に乗って台詞を語り歌うレシタティーヴォ部分と、メロディで感情を表現するアリア部分で構成されている。ドラマはたいてい単純なストーリーで、若い男女が愛を告白しあい、沸き起こった気持ちを、ときにはソロで、ときには二重唱で朗々と歌いあげる。
しかし、ドビュッシーのオペラでは、歌手たちは台詞に少し抑揚をつけただけの朗誦風のメロディを歌い、オーケストラは登場人物の心理の動きを暗示させるような象徴的な音楽を奏でる。結果として目鼻だちのはっきりしない、ヨーロッパ的な意味では起承転結にとぼしい作品となり、感情移入できるメロディが見あたらないことに失望する観客もいて、初演は-多くの革新的な作品がそうであるように-スキャンダルをひき起こした。
オペラ・コミック座の支配人の求めに応じて書いたおぼえ書きで、ドビュッシーは次のように語っている。
「私は、オペラを作ろうというときになると不思議に忘失されるらしい美の一法則に順応しようという工夫もしました。つまり、このドラマの登場人物たちは、ごくあたり前の人間らしく歌をうたうので、時代おくれな伝統が作り上げているあの得手勝手な言葉で歌ったりはしないのです。ところが、そういうところが批判の的になりました。全然メロディらしいものがあらわれない単調な詠唱に、私が熱をあげているというわけです。第一、それは見当違いな批判です。考えてもご覧じろ、登場人物の感情というものが、絶えずメロディーで表現されるなどどいうことはありえぬはずでしょう」(『音楽のために』杉本秀太郎 訳)
こうしたオペラの形を、ドビュッシーはずっと夢想していた。ごく若いころ、作曲の師ギローに語った言葉が残っている。
「言葉が表現する力のなくなったところ、そこから音楽がはじまる。いうにいわれぬもののために、音楽が作られる。影から出てきたような気配があって、そして瞬時にしてそこに戻ってしまう、そんな音楽。いつも控え目にしているひとみたいな、そんな音楽が書きたいのです」(平島正郎訳『ドビュッシー』)
ドビュッシーが理想とする音楽の在り方とは、「ものごとを半分まで言って、あとは想像力に接ぎ木させる」ものだった。
これ以上に日本的な感性があるだろうか。
私たちは欧米人と話すとき、何もかも言語化する彼らの態度にとまどいをおぼえることがある。すべてを言ってしまうのははしたない、半分まで言って、あとは胸の内を察してもらいたいのだが、彼らは、言葉に乗せないと考えていることがわからないと主張する。 演奏するときも同じだ。日本人の演奏は、しばしは平板だと言われる。大きな情熱、大きな怒りをもっと全的に表現しなければ、聴いている人に伝わらないと言われる。
しかし、我々は日本人なのだから、欧米人と同じようにアプローチしても意味がない。欧米人にとっては欠点なる日本人の特性をポジティヴに活かす演奏の形を模索するとき、ドビュッシーの存在はひとつの指針となる。
ドビュッシー自身が、大変に内気で人見知りな性格だったらしい。人前ではほとんど自分を表に出さず、胸中を打ち明けなかったという。
「人々と一緒になるや、彼は自分の中に閉じこもり、誰かの手中に自分を委ねるのを恐れ、一般的な会話よりもむしろ、自分の夢想を辿る方を選ぶのだった」とエディターのデュランは回想している。
若いときの友人、ムーレイの描写も、ドビュッシーの日本的感性をあらわしている。
「ドビュッシーは常に簡潔さを好んだ。彼はあらゆる事柄において、余計な展開や無駄な飾りを嫌悪していた。的確な表現、的を射た言葉、表情豊かな仕草の技法を、彼以上に見事に実践した人は誰もいない。ドビュッシーは自己の内部で強烈な人生を生きた、抑制の人だった」(ルシュール『伝記 クロード・ドビュッシー』笠羽映子訳)
内に秘めた情熱、限られた中で多くを語る凝縮した表現、感動の核心に至る洗練された技法、簡素だからこその贅沢さ。
自然釉の壺のラインや墨絵のひとはけにこめられた無限の美に通底するものが、ドビュッシー音楽にはある。ドビュッシーこそ、私たちが私たちのようであることをもっとも有効に活かす作曲家だと思う所以である。