「創造におけるオリジナリティとはなにか─クロード・ドビュッシーの場合」(学鐙 2016年春号)

二〇一六年一月、NHK交響楽団の定期演奏会で、ドビュッシーの子ども向けバレエ音楽『おもちゃ箱』(一九一三)がとりあげられた。絵本作家アンドレ・エレの台本にもとづく作品で、オペラ・コミック座での上演が予定されていたが、第一次世界大戦の勃発によって沙汰止みになり、ピアノ譜のみが残された。

ドビュッシーの死後、弟子格のアンドレ・カプレがオーケストレーションを完成させている。N響定期ではこのカプレ版を、山田和樹さんの指揮、女優の松島奈々子さんのナレーションで演奏した。テキストは、私がエレの台本から翻訳したもの。

ドビュッシーといえば印象主義音楽の創始者と定義づけられているが、『おもちゃ箱』は後期の作品なので、ずいぶん手ざわりが違う。

全一幕四場を通じて、音のコラージュとでもいおうか、さまざまなシーンで、自分も含めてさまざまな作曲家の作品が引用されている。たとえばケークウォークのリズムによる「水兵の踊り」には、自作のピアノ小品『小さな黒人』の主要モティーフを使っている。

他にも、「象の踊り」には、イギリスで象をイメージさせるというヒンドゥーの古謡、「兵隊の踊り」にはグノー『ファウスト』から兵士の合唱、結婚のシーンには、メンデルスゾーン『結婚行進曲』をデフォルメして使い、雰囲気を盛り上げる。人形たちがポルカを踊るシーンはストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』の第一場からの引用である。

N響の定期公演、プログラムの後半は、他ならぬストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』。一九一一年にロシア・バレエ団によって初演されたバレエ音楽である。このとりあわせはなかなかに意味深だった。

というのは、『おもちゃ箱』と『ペトルーシュカ』は、人形を題材としている点も共通しているし、いろいろな作品からの引用が多いという類似点もあるのだが、ストラヴィンスキーのほうが先なので、どうしても後発のドビュッシーにコピー疑惑がもちあがる。

『ペトルーシュカ』はペテルブルクの謝肉祭の市場にかけられた芝居小屋が舞台。踊り子の人形に恋した人形ペトルーシュカがムーア人の人形に殺されてしまうという物語で、リムスキー=コルサコフの『一〇〇のロシア民謡集』の「復活祭の歌」や当時のポピュラー音楽、そしてウィンナ・ワルツ王ヨーゼフ・ランナーの『シュタイル風舞曲』や『シェーンブルンの人々』などが引用されている。

『おもちゃ箱』のほうは、とあるおもちゃ屋の店内が舞台。小さな木の兵隊が人形に恋をするが、恋仇のプルチネッラとの間に戦争が起き、兵隊は負傷する。移り気なプルチネッラに棄てられた人形は彼の介抱をしてやがて結婚するというストーリーだから、結末は『ペトルーシュカ』とは違うが、シチュエーションは似たところがあるかもしれない。

ドビュッシーは『ベトルーシュカ』を大変評価していた。スコアを詳細に研究した彼は、一九一二年四月一三日付けの手紙で作曲家にこんな賛辞を送っている。
「あなたのおかげで、私は、ペトルーシュカ、恐ろしいムーア人、魅力的なバレリーナを道連れに、素晴らしい復活祭の休暇を過ごしました(中略)。そこには一種の音の魔術、つまり機械の魂が魔法によって人間的となる神秘的な変化が見いだされますが、その魔法を創造されたのは、今までのところあなただけであるように思われます」

ドビュッシーの『おもちゃ箱』にも人形たちが生命を得て動きはじめるシーンが描かれているが、残念ながらストラヴィンスキーの「神秘」には至っていない。『ペトルーシュカ』を通じて学んだコラージュの手法は、『おもちゃ箱』を経て晩年の『一二の練習曲』に活かされることになる。

引用による作曲はストラヴィンスキーにとっては意図的な技法であり、ドビュッシーもその影響を受けたわけだが、彼自身は、無意識のうちに他の作曲家の語法を引用してしまい、盗作疑惑をかけられることもあった。

もっともよく知られているのは、ラヴェルとの間に起きた「ハバネラ事件」である。

一八九八年、ラヴェルは国民音楽協会で『耳で聴く風景』を初演した。会場にいたドビュッシーは二曲めの「ハバネラ」をいたく気に入り、自筆譜を求めた。ラヴェルは一三歳年長の敬愛する作曲家の求めに応じたが、ドビュッシーは楽譜を返さなかったらしい。

一九〇三年、ドビュッシーの『版画』が発表されたとき、その二曲め「クラナダの夕」を聴いたラヴェルは、「ハバネラ」の主要楽想やリズム・オスティナートのアイディアが盗まれたと感じ、周囲の人々にそう打ち明けた。一九〇一年に書かれた二台のピアノのための『リンダラハ』には、ラヴェルの「グラナダ」以上に「ハバネラ」そっくりの部分が認められるが、作曲者の死後発見されたため、ラヴェルは存在すら知らなかった。

ドビュッシーの死後、ある楽譜の間からラヴェルの自筆譜が発見された。そこには、筆写どころか、楽譜を見た痕跡すら認められなかったらしい。

ラヴェルはスペイン国境に近いバスク地方の出身だが、ドビュッシーはスペインとは関係がなく、旅行をしたこともなかった。『前奏曲集第二巻』の「ヴィノの門」は、ファリャが送ったグラナダのアルハンブラ宮殿の絵葉書にヒントを得て作曲された。

フランスの洗練された文化とはかけ離れた、アフリカのモール文化。人間や動物を描いてはならないというイスラム教の戒律から草木をモティーフに発展したアラベスク模様。ドビュッシーの「ヴィノの門」には、ほの暗いエキゾシチズムが満ちている。

ドビュッシーは、ことさらにスペイン的なテーマやスペインの旋法、リズムを使用しないときでも、スペイン的な情緒を表現するのがうまかったとファリャは語っている。

たとえば『弦楽四重奏曲』の第二楽章。何ひとつスペイン的な要素を用いていないのに、これまで書かれた中でもっとも美しいアンダルシア地方のダンスを連想させる、と。

こんにち、『スペイン狂詩曲』に組み込まれた「ハバネラ」と『版画』の「グラナダの夕」を聴いてドビュッシーを糾弾する人はいないだろう。たしかに、ハバネラのリズム・オスティナート、シンコペーションのリズムで物憂げに揺れ動く和声など、共通点はある。しかし、ゴヤのマハの眼差しから溢れ出る官能まで音にしてしまうドビュッシーの喚起力は圧倒的で、後輩の巧みな作曲技法をはるかに超えた境地に達していると思う。

ドビュッシーとラヴェルには、いわゆる「印象主義的なピアニズム」の創始者としてのプライオリティを競った時代もある。

一九〇七年、ラヴェルがある音楽評論家に出した手紙が、『ル・タン』紙で公開された。そこでラヴェルは、その評論家が「特殊なピアノ書法」(細かい音をペダルで混ぜてひとつの音響空間を創り出すような書法)について長々と述べ、それをドビュッシーが編み出したものと断定していることに抗議を表明している。

「さて、『水の戯れ』は一九〇二年の初めに公表されましたが、当時ドビュッシーのものとしては三曲の『ピアノのために』しか存在していませんでした。それらの作品に対する私の熱狂的な賛嘆をあなたに申し上げる必要は感じませんが、それらは、純粋にピアノ上の観点からすれば、まったく新しいものは何らもたらしていなかったのです」

一九〇三年に発表された『版画』でドビュッシーは、「ハバネラ」以外にも―たぶん無意識のうちに―ラヴェルを模倣している。第一曲「塔」は、一八八九年にドビュッシーが接したガムラン音楽のスレンドロ音階を使っているが、五音音階によるアルペッジョが次第に溶け消えていくコーダ部分は、『水の戯れ』の終わりにきわめて似ている。

一九〇五年には、またラヴェルの神経を逆撫でするようなタイトルのピアノ曲が発表された。『映像第一集』の第一曲「水の反映」である。といっても、原題を見ると意味あいはずいぶん違う。『水の戯れ』がJeuxdʼeau、つまり水の諸様相の描写であるのに対して、「水の反映」はRefletsdanslʼeau。水面に映る影の描写というわけだ。

ここには、水面に映る我が身に恋い焦がれたギリシャ神話のナルシスから、ドッペルゲンゲルにとり殺されたポーのウィリアム・ウィルソン、自分の肖像画に魂を吸い取られたワイルドのドリアン・グレイに共通する「映像の恐怖」のモティーフが秘められている。ラヴェルもまた、一九〇五年作の『鏡』で同様のテーマを扱った。終曲「鐘の谷」は、周囲からさまざまな反映が聞こえてきて、万華鏡の中心に迷い込んだような気分になる。技法にこだわるラヴェルは、書法の専売特許を主張したがったし、ドビュッシーはそんなラヴェルを椅子のまわりに花を咲かせる手品師にすぎないと切って捨てた。

ラヴェルもストラヴィンスキーもある時期から新古典主義に方向転換したが、ドビュッシーは後輩たちの斬新なアイディアをとりこみながら道なき道を突き進み、ピアノのための『一二の練習曲』で二〇世紀音楽の扉を開いた。

ショパンの『練習曲集』から引用した固有の響きを素材に、ピカソかブラックのような抽象的な音世界を構築する手法はあまりにオリジナルで、いまだにあらゆる分析を拒絶したまま孤高の峰として屹立している。

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