「3つのアラベスク—宮城道雄とドビュッシーをめぐる随筆 第一回 東と西の出会い」(宮城会会報222号 2015年5月巻頭エッセイ)

明治以来、日本の作曲家は西洋の作曲家を手本に道を切り拓いていった。

黎明期の滝廉太郎(一八七九~一九〇三)はドイツに留学し、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院に学んだが、肺結核を患って帰国。二十三歳の若さで亡くなる前、メンデルスゾーンを彷彿とさせるピアノ曲《憾(うらみ)》を作曲している。山田耕筰(一八八六~一九六五)はベルリンに留学し、リヒャルト・シュトラウスの影響の色濃い《曼陀羅の華》というオーケストラ曲を作曲した。菅原明朗(一八九七~一九八八)はフランス印象派の影響を受けた最初の作曲家として、ピアノ組曲《白鳳の歌》を残した。国際的作曲家として名高い武満徹(一九三〇~一九九六)も、出発点はドビュッシーやメシアンだった。

箏曲の作曲家である宮城道雄(一八九四~一九五六)も、若いころから洋楽に惹かれ、レコードを通じて勉強を重ねた。その聴体験には、バッハやモーツァルト、べートーヴェンは言うにおよばず、ドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーなど、当時としては最前衛の作曲家も含まれていて驚く。

「『春の海』のことなど」という随筆には、京城にいた十七、八歳のころ、ギリシア人の経営する店で流すレコードを表に立って聴いていたエピソードが書かれている。夏はよいのだが、冬は非常に寒く、水蒸気が凍りついたガラス戸からかすかに漏れてくるレコードの音をずっと聴いていたというから、熱意のほどが察せられようというものである。あまりに長い間立っているので、気の毒に思った店の人が中に入れてくれるようになった。

西洋音楽を聴き込んだ宮城の耳は、日本音楽のうちにも知らず知らず西との相似を聞き取ろうとする。吉沢検校の《春の曲》を弾きながら、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ《春》を思い浮かべる。かねて愛好するドビュッシーの交響詩《海》を聴いても、作曲にあたって想を得たという葛飾北斎を通じて、同じく吉沢検校作《千鳥の曲》との関連に思いをはせるのである。

音楽ばかりではない。「靹の津」という随筆で宮城は、父親の生まれ故郷である広島県の靹の浦を訪れて一泊した際、宿の主人から「沖の方に打瀬舟がたくさん帆をかけて並んでいて、それに朝日が美しく映えている」と聞かされ、やはりドビュッシーの《海》が耳に浮かんできたと書いている。

日本の音楽家が西洋への憧れを糧に創作に励んでいたころ、ヨーロッパの音楽家のほうはどんどん東洋に近づいてきていた。ドビュッシー(一八六二~一九一八)は、東洋の音楽を題材に作曲した最初の西洋の作曲家である。

一八八九年、ドビュッシーはパリで開催された万国博覧会に出かけ、安南(ヴェトナム)やジャワの音楽に接して大きな衝撃を受ける。一九一三年になってドビュッシーは、ある雑誌で当時の感動をこんなふうに語る。

「ジャワの音楽は、パレストリーナの対位法のごとき、これに比べれば児戯にひとしいような一種の対位法を含んでいる。そしてわれわれがヨーロッパ的な偏見を捨てて彼らの打楽器の魅力に耳を傾けるならば、われわれの打楽器のごときは、場末のサーカスの野蛮な音にすぎないのに、いやでも気づかなくてはならない。

安南人は萌芽状態のオペラとでもいったものを演じる。それは中国の影響を受けた歌謡劇で、三幕の形態をおびている。ただし、神の数はずっと多く、その反面、舞台装置は簡単だ。怒ったような音を出す小さな笛が感興を盛りあげ、タムタムが畏怖を深味のあるものにする」(杉本秀太郎訳『音楽のために』)

万国博覧会の年、ドビュッシーはワーグナーの楽劇を観るためにバイロイトに出かけ、ワーグナーへの決別を宣言したばかりだった。それまでの作曲界は、ウィーン古典派時代に確立された機能和声法に支配されていたが、ワーグナーは調性感の曖昧な半音階を多用することによってそれを崩してしまった。ワーグナーの魅力は圧倒的で、作曲家たちはみな彼の亜流に陥る危険があり、作曲界は方向を見失っていた。
ドビュッシーは東洋の語法を手がかりに行き詰まりを打開しようと思ったのである。機能和声法で書かれた音楽は、厳格なシステムに基づいた立体的な構造をもっている。ある調性から別の調性に転調し、いろいろ展開したあとで必ず元の調性にもどってくる。リズム面でも、四拍子や三拍子など、強拍と弱拍の対比によって明確な律動を刻む。

しかるにドビュッシーは、調性を決定づけている音をわざと回避し、教会旋法や民族音楽の旋法、東洋風の五音音階や並置的なリズムを多用することによって、平面的でスタティックな美しさを生み出そうとした。

ドビュッシーが一九〇三年に発表した《版画》の第一曲「パゴダ」は、ジャワのガムラン音楽の「スレンドロ音階」を使って書かれている。ガムランの打楽器を思わせる響きの中から「スレンドロ音階」が浮かびあがってくるが、普通の西洋音楽のようにくっきりした線やそれを裏づけるハーモニーがあるわけではなく、大胆に躍動するリズムがあるわけでもなく、すべてがないまぜになってふわーんと漂っている。

ドビュッシーは一九〇七年《映像第二集》でも五音音階を駆使して東洋風の作品を発表した。第二曲「そして月は廃寺に落ちる」はカンボジアのアンコールワット寺院、第三曲「金色の魚」は日本の蒔絵の箱をイメージ源にもっている。

靹の海にドビュッシーの《海》を聴いた宮城道雄の”耳”は正しかったのである。

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