「オズの魔法使い」
フランク・ボームの『オズの魔法使い』には、印象的なケシ畑のシーンがある。
カンサスの大草原で育ったドロシーちゃんは、愛犬のトトとともに竜巻で家ごと吹き飛ばされてしまう。降り立ったのはマンチキンの国。頭に藁のつまったかかし、ハートのないブリキの木こり、臆病なライオンとお供もそろい、〈エメラルドの都〉めざして歩くうち、たいそう美しい土地にさしかかった。
「黄や白や青やムラサキの大輪の花が、真赤なポピーの大群のかたわらに咲いています。そのポピーの色といったら、まばゆいばかりなので、ドロシーは目がくらみそうでした。
『まあ、なんてきれいなんでしょう』少女は、花々のツンと鼻をつく香りを吸いこみながらいいました」(佐藤高子訳)
ダメダメ、吸い込んだりしちゃ。日本で咲いているポピーからは阿片はとれないけど、ソムニフェルム種のケシは麻薬なんだから。
案の定、ドロシーちゃんはぐうぐう寝てしまう。花の毒にやられないように走り出したライオンも、途中で力つきる。ブリキの木こりとかかしだけが全然平気で、ドロシーちゃんとトトを運び、無事ケシ畑を脱出する。
ケシは、ギリシャ神話の「ハルキュオネ」の挿話にも出てくる。虹の女神イリスは、ヘラの命を受け、夫が海で遭難したことを知らないハルキュオネの夢枕に立ってもらうため眠りの神ヒュプノスの宮殿を訪れる。
陽の光が絶対にささない山奥にある宮殿のまわりには、おびただしいケシの花が栽培されていた。花の液汁から「睡眠」を抽出し、地上が暗くなったときにふりまくと、鳥も獣も人間も、あらゆる生き物が寝てしまう。睡眠の宮殿にも眠りが充満しているので、イリスは用事をすませると一目散に退散した。
今では日本をはじめ大半の国で阿片の栽培は禁止されているが、十九世紀には野放し状態で、はまってしまう芸術家も少なくなかった。フランス象徴派の詩人ボードレールもその一人で、阿片を飲んで陶然となり、五感がさまざまに照応しあうさまを詩に詠んだ。
彼の「夕べの階調」にヒントを得たドビュッシーのピアノ曲『音と香りは夕暮れの大気に漂う』にも、妖しげな雰囲気が充満している。ワルツを拡大した五拍子のリズムでふわっと浮き上がり、低音部でうごめき、かと思うと竜巻のように激しく渦を巻いたり──。
十八世紀ロココの作曲家クープランのクラヴサン曲『けし』も、摩訶不思議な作品だ。めまいを誘うような音のからみあい。とくに後半部分、絶えず半音階でずり上がっていくところなど、何だかドロシーちゃんのケシ畑を散歩しているような気分になってくる。