【特集】「音楽に恋愛を聴く」(音楽の友 2004年12月号)

恋の喜びとエロスの充満──ドビュッシー《喜びの島》 

ドビュッシーは、どちらかといえば暗い性格だった。最初の妻リリーは、ときおり陽気になることもあるが、彼の心の底には「哀しみ」があった、と回想している。

ドビュッシーの音楽も、ぱあっと陽気になることはあまりない。いったん盛り上がっても、たいてい静まり返ってしまい、「ほとんど何もなく」という表示で終わる。

しかし、《喜びの島》だけは喜びが充満している。最後も爆発するように終わる。なぜなら、ドビュッシーは恋をしていたから。

ルシュール『伝記 クロード・ドビュッシー』によれば、《喜びの島》の草稿の117~144小節には、次のように記されているという。

「以下の小節は、1904年6月の或る火曜日にそれらを私に書きとらせてくれたバルダック夫人── p・m ──に帰結するものです」(笠羽映子訳)

バルダック夫人とは二度目の妻となるエンマ・バルダックで、「p・m」は、ドビュッシーが彼女を呼ぶときに使った「かわいい私のもの」の略である。彼らがはじめて結ばれたのは、6月の「或る火曜日」ではなく、9日の木曜日。1862年生まれの二人は、ほんの数週間違いの同い年だった。ということは、42歳? なかなかやるのう。

エンマは裕福な銀行家の妻で、社交界の歌姫としても知られていたが、口さがないパリっ子たちからは「有名な作曲家と結婚して後世に名を残すことに野心を持つ女性」といわれていた。1890年代にはフォーレと親しく、 《優しき歌》 など数々の歌曲を献呈されている。そのあとラヴェルにも近づき、 《シェエラザード》 から 〈つれない人〉 を献呈された。この場合、つれなかったのはラヴェルの方なのだが。

ドビュッシーとは息子ラウールの作曲の先生という関係で、1903年秋ごろ出会ったといわれる。エンマは小柄で若々しく、婦人洋装店のマヌカンだった最初の妻リリーよりずっと教養があり、上流階級の女性に憧れていたドビュッシーを夢中にさせてしまった。

ちょうどそのころ書いていたのが、《喜びの島》である。イメージ源はワットー「シテール島への船出」で、愛の神ヴィーナスを祭る島に船出する男女の情景。冒頭のカデンツは 《牧神の午後への前奏曲》のフルート・ソロを装飾したものだし、渦まくような三連音符のモティーフも 《牧神》 を想起させる。問題の117~144小節では、めまぐるしく動く走句の下で、突如としてわきおこった全音音階のモティーフが転調をくり返しながらせり上がっていく。そして、爆発──。 要するに、エロスが充満しているのだ。

1904年7月、ドビュッシーはエンマとジャージー島に駆け落ちした。そのころ撮影された写真を見て下さいな。ドビュッシーのとろけそうな顔。まさにジャージー島は二人の「喜びの島」となったのである。

2004年12月17日 の記事一覧>>

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