日本での初リサイタルを自らもピアニストの青柳いづみこ氏が取材した。
●郎朗(ランラン)
1982年、中国瀋陽生まれ。17歳で代役を務めた「世紀のガラ」コンサートをきっかけにスーパースターに。演奏活動のかたわら子どもたちの音楽教育、ユニセフ親善大使、モンブランのアンバサダーなど幅広い活動を通して、クラシックの普及に努めている。
●青柳いづみこ ピアニスト・文筆家。師安川加壽子の評伝『翼のはえた指』で第9回吉田秀和賞、祖父青柳瑞穂の評伝『真贋のあわいに』で第49回日本エッセイストクラブ賞を受賞。ドビュッシーを中心に演奏活動をこなす一方、軽妙な語り口のエッセイも人気。
両親の悲願を実現させた 瀋陽の天才少年
ランランの取材をすることになった、と夫に報告したら、「パンダか……」と言われた。北京オリンピックの開会式でちっちゃな女の子とピアノ弾いてたでしょ、と言っても、記憶にないらしい。
中国のピアニスト、郎朗は、クラシック界では誰知らぬ人もいないスーパースターなんだが、かんじんのクラシックが、一般社会ではなじみが薄い。
この間題をランラン自身にぶつけてみたら、次のような答えが返ってきた。「自分も、いつもそのことを考えている。クラシックは素晴らしいものだし、特に青少年には必要だと思う。新しい世代のファンを増やしたくて、滞在する都市では子どもたちのためのコンサートを開き、『ラン・ラン国際音楽財団』を設立し、ユニセフの親善大使やモンブランのアドパイザーもつとめている。オリンピックは一瞬で終わってしまうけれど、こうした活動の継続が必要だと思う」
まだ26歳なのに、「ノーブレスオブリージ」に目覚めている。そんな姿勢は、彼の生い立ちと深くかかわっている。
ランランは、1982年6月14日、中国東北部の瀋陽に生まれた。文化大革命は6年前に終わっていたが、まだ深い爪痕を残していた頃だ。文化の革命とは名ばかりで、あらゆる欧米文化は否定され、クラシックの作曲家や演奏家も追放され、楽譜は窓から投げ捨てられた。
そんななか、音楽家への道を絶たれたランランの両親は、長男にすべての夢を託した。とりわけ父親は厳しかった。といっても、ランランのピアノは強制されたものではなく、練習もひと前で弾くのも大好きで、ピアノとの関係は、ほかの子どもにとってのおもちゃのようなものだったと、『郎朗自伝』には書かれている。
しかし、父が求めるのは「勝って勝って勝ち抜くこと」だった。父子鷹の歩みは、まるで『巨人の星』のようだ。地元のコンクール、北京中央音楽学院の入試、ドイツの青少年コンクール、仙台で開かれた青少年のためのチャイコフスキー国際コンクール。すべて「ナンバーワン」を望み、7~8時間の猛練習に励む。
これでスポイルされなかったのだから、ランランはよほど音楽とピアノを愛していたのだろう。また、演奏することに強烈な喜びを感じていたに違いない。
もともと裕福ではなかったランラン一家だが、父親が仕事を辞め、長男と北京に出てからは、電話交換手をつとめる母親からの仕送りが唯一の収入。スラム街の暖房のないアパートで粗食に耐え、夜遅くまで練習した。国際コンクールで優勝して凱旋しても、賞金は借金の返済にあてられ、相変わらず無一文だった。
貧窮生活は、フィラデルフィアのカーティス音楽院入学とともに終わりを告げる。高名などアニストのグラフマン校長はじめ重鎮の前で演奏したランランは、奨学金の全額給付、ピアノつきの住居と 生活費を支給されることになる。
そこから先は、典型的なアメリカンドリームである。テニスのスーパースター並みに国際コンクールのグランドスラムを達成するぞと意気込むランランにグラフマン先生は、「コンクールに追われる日々は終わらせなければならない」と告げる。父とともに「勝ち抜くこと」を目標にしてきたランランはとまどった。先生はそんな彼に、別の意味での「ナンバーワン」、つまり「音楽を通じて聴衆を感動させるナンバーワン」への道を示す。
ランランは校長先生の紹介で一流エージェントの代奏者リストに登録された。大物ピアニストがキャンセルしたとき、かわりに演奏するのである。2年間は何も動かなかったが、辛抱強く練習を続けた。そしてついにチャンスが訪れる。
ランランが共演を夢見ていたシカゴ交響楽団は、夏に近郊で野外音楽祭を開いていた。あるオーディションで彼に目をとめた女性から推薦されたランランは、音楽監督に求められるまま3時間も弾き続ける。言われた曲は全部弾けた。そして、一人のピアニストが音楽祭への出演をキャンセルしたため、彼がシカゴ交響楽団と共演することになったのだ!
曲はチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』。若冠17歳の中国人の演奏は三千人の聴衆の心を一瞬にしてとらえ、スタンディングオベーションが起こった。輝かしいキャリアの門出だった。
勤勉さとチャレンジ魂を併せ持つしなやかさ
スーパースターになってもランランは地道な勉強を怠らない。もともと感性が豊かでロマンティックな表現に秀でているランランだが、高名な指揮者のバレンポイムは彼に、感情に流される前に精神状態をコントロールする方法を教えた。
17歳ですでに広大なレパートリーを誇っていたランランは、さらにそれを拡大させている。楽譜を読むのは早いほうで、一日も練習すれば新しい曲をざっと弾くことができる。さらに高いレベルで演奏するためには6カ月が必要だ。だから、先々まで決まっているツアーに合わせて2年前から勉強を開始しておく。
09年1月のサントリーホールでは、別々の曲目による昼夜公演という、過酷なトライアスロンレースに挑戦した。もともと24、25日の公演が予定されていたのだが、中国政府の要請で25日に帰国しなければならなくなり、そのぷんが24日の昼にまわってきたのだ。
私が話を聞いたのは、この昼夜公演の前日だった。思いがけないことでわくわくしている、とランランは語った。極限状況に置かれたとき、何が起きるか、自分がどうなるかにも興味がある、と。
間近で見るランランの大きな目はキラキラと光って、少しもプレッシャーを感じていないようだ。握手した手はお餅のように柔らかく、優れたスポーツ選手の筋肉を連想させる。柔軟性を保つために何か運動をしているのですか? と聞いたら、ランニングだけだと語っていた。
とはいえ、心配な面もあっただろう。重要な公演のときに背中をボンと叩いて「大丈夫だよ!」と言う役目のお父さんが呼ばれていた。マッサージ師も雇い、しっかりケアしてもらう。「鍼は?」と聞いたら、「鍼はこわいよ!」と叫んだのはご愛嬌。こうして、前代未聞の昼夜公演を見事に成功させたのだ。
ランランは、喜びも悲しみも全身全霊で表現する。メリハリのつけ方がとても巧みだ。ビートのきいた音楽では、文字どおり全身が躍動し、聴衆は熟狂する。優れた身体能力はすぐわかる。関節が極度に柔らかく、指も手首もあらゆる角度に曲がり、どんな動きにも対応する。対して背筋は強く、腕を激しくバウンドさせる場面でもしっかり支える。
昼のプログラムでは、シューベルトのソナタが見事だった。作曲者の心のなかに入り込み、うつろいを刻々と書で表現していく。幸せいっぱいになったりふっと陰ったり、ときに勝ち誇って雄叫びをあげたり、ランランの人生のさまざまな局面が反映されているようだ。
夜公演の白眉はなんといっても中国の作曲家の作品のメドレー。国際人になっても自分のルーツを誇りに思うランランは、その長くしなやかな指先に思いのたけを込め、鍵盤上を縦横無尽に走らせた。
昼夜とも満員の客席には、子どもたちの姿も多く見られた。ランランのピアノに心動かされ、次代の聴衆が育ってくれることを心から願わずにはいられない。