音楽に祝祭的気分を!
20世紀音楽のリーダー、コクトー
“Hommage a Cocteau” というアルバムがある。バリトンの J.F.GardeilとピアノのBilly Eidiが、コクトーの詩による 11人の作曲家の作品を演奏している。
サティはコクトーが『雄鳥とアルルカン』で新時代の指導者に任命した作曲家だし、ソーゲはその子分。オネゲル、デュレ、オーリック、ミヨー、プーランクはコクトー率いる6人組のメンバー。
1918年から23年にかけて書かれた彼らの歌曲は、シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』(1912)のように無調ではないが、異なった調性を重ね合わせたり、かけはなれた調性に飛び移ったり、斬新な手法が盛り込まれている。なかでもプーランク『コカルド』は、言葉そのものは平易なのにとりあわせに脈絡のないコクトーの詩にふさわしい自由奔放さだ。
ドビュッシーは、『牧神の午後への前奏曲』や『ビリティスの歌』のように、自ら詩人に歩み寄り、テキストの音楽化や共同制作をもちかけたが、ロシア・バレエ団による『パラード』の上演以降、サティをかついでパリの音楽シーンをリードしたのは、詩人のコクトーだった。
1866年生まれのサティは、1903年ごろはモンマルトルの酒場のしがないピアノ弾きでしかなかった。4歳年上のドビュッシーの家で週に一度ピアノを弾いていたが、「君はフォルムの感覚をもつべきだ」と言われ、傑作『梨の形をした3つの小品』を書いたという話は有名だ。ようやく1911年になって、彼のピアノ曲がラヴェルとリカルド・ヴィニェスによって独立音楽協会で紹介された。
1913年には、のちの6人組の一員オーリックが、わずか13歳で『フランス音楽評論』にサティを讃える記事を書いた。お礼にオーリックを訪問したサティは、ベルの音とともに飛び出てきた少年が執筆者だったことを知って驚いたという。
当時47歳のサティは、孫ほどの若者と仲良くなる名人だった。2年前にも、カフェ・コンセールの歌手の家で20歳のロラン・マニュエルと知り合い、意気投合している。1914年には、マニュエルのサロンで喜歌劇『メデューサの罠』が初演され、画家のヴァランティーヌ・グロスとの間に厚い友情が生まれる。ロシア・バレエ団の庇護者ミシアがサティをディアギレフに紹介したのもこの年である。16年4 月にはモンパルナスのアトリエでラヴェル&サティ演奏会が開かれ、コクトーもヴァランティーヌを伴って出かける。かねてディアギレフから「自分を驚かしてみろ」と言われていたコクトーは、サティの『梨の形・・・』を聴いてこれだ! と思った。するとサティは、旧作ではなく新作でいきたいと言ってきた。これが『パラード』の起源である。『書簡から見るサティ』の編著者オルネラ・ヴォルタが分析するヴァレンティーヌとミシア、サティとディアギレフの神経戦はなかなかおもしろい。
コクトーはミシアに無断で台本を書き始めたのだが、サティがばらしてしまう。なかんずくサティはディアギレフに別のバレエをもちかけ、コクトーに無視されたミシアも後押しするが、コクトーとサティを疎遠にしようする画策にサティが反発し、コクトーがピカソを巻き込むとサティはピカソ寄りになり・・・1917年5月にシャトレ座で上演された『パラード』は大スキャンダルを引き 起こすことによって大成功をおさめた。
サティに私淑する作曲家が「新青年派」を結成。18年1月にユイガンス公会堂で旗揚げし、19年にはプーランクやミヨーも加わって演奏会が開かれた。ヴァイオリニストのジュルダン=モランジュによれば、作品の多くは「前の日に生まれたばかりで、時には未完成」だった。1920年1 月、評論家のコレが「コメディア」誌でロシア5人組になぞらえたことから「フランス6人組」が誕生したのである。
同年2月、コクトーはボーモン伯爵の出資でコメディ・デ・シャンゼリゼを借り、スペクタクル・コンサートを開催した。プーランク『コカルド』が初演され、ミヨーはコクトーの台本でサーカス風バレエ『屋根の上の牡牛』を上演した。このころが6人組の最盛期かもしれない。
しかし、6人の音楽性や気質はずいぶん異なっていた。コクトーはモダニズムを推進するためにラヴェルを否定し、オーリックとプーランクも同調したが、ラヴェル派のデュレとタイユフェールは困惑した。1921年6月にスウェーデン・バレエ団が上演した『エッフェル塔の花嫁花婿』(コクトーの台本とプロデュース)では初めて6人が共同制作することになっていたが、直前にデュレが脱退した。
何によらず徒党を組むことの嫌いなサティは、24年6月にオーリックやプーランクと仲違いしてしまう。25年3月、ラヴェル『子供と魔法』の初演に接した2人は反ラヴェルを撤回する。サティが亡くなったのはその3ヶ月半後である。のちにプーランクは「我々の各自の好みを反映した音楽は、結局のところ共通の美意識を持ちませんでした」と語っている。6人組の面々は、サティの仲間うちにいたことで「まじめな作曲家」と見なされず、ずいぶん苦労したらしい。
しかし、かけ離れたものをぶつけることによって強大なエネルギーを生み出し、音楽に祝祭的気分を取り戻すことがコクトーのねらいだったのだ。虚々実々でも寄せ集めでもよいから、音楽家と詩人と画家と舞踊家と服飾家デザイナーがわいわい騒ぎをくりひろげていたあのころがなつかしいと、私などはそう思う。