魔術師ラヴェル(モーストリークラシック 2025年11月号)

青春時代の異なる傾倒
ポーへ共通の偏愛

 ドビュッシーは1862年生まれ、ラヴェルは1875年生まれと、13歳の開きがある。ドビュッシーは若いころワーグナーに心酔し、バイロイトに2年つづけて通い、《トリスタンとイゾルデ》全3幕を暗記して弾き歌いできるほどだった。ラヴェルは若いころサティに心酔し、18歳のとき、父親に連れられてモンマルトルの酒場「ヌーヴェル・アテヌ」を訪れたほどだった。ラヴェル自身、初期の歌曲《暗く果てしなき眠り》や連弾曲《マ・メール・ロワ》の〈美女と野獣の対話〉はサティに拠っていると認めている。
 2人の共通点は、エドガー・アラン・ポーへの偏愛である。ドビュッシーはポーの怪奇小説『アッシャー家の崩壊』のオペラ化に腐心し、ラヴェルは『構成の原理』を作曲語法の指針とした。1898年、[国民音楽協会」でラヴェルの二台ピアノ曲《耳で聴く風景》が初演されたとき、第1曲〈ハバネラ〉を気に入ったドビュッシーは楽譜の写しを求め、それを返さなかった。

友情の時期

 1901年4月、ラヴェルはフローラン・シュミット宛ての手紙で、10月に全曲初演されることになる管弦楽のための《ノクチュルヌ》の2台ピアノ版編曲を依頼されたと告げる。「この種の仕事に幾らか巧みなことが明らかだったから、僕には、多分最も完壁に美しくて、間違いなく最もデリケートな第3部《シレーヌたち》をたったひとりで書き換える仕事が振られた」。他2曲の担当は、ともにパリ音楽院のフォーレのクラスに在籍していたラウール・バルダックとリュシアン・ガルバンだった(最終的にラヴェルが全曲編曲して1909年に刊行している)。
 ラヴェルはその年、ローマ大賞で第2等賞にとどまったが、ドビュッシーは8月4日のガルバン宛ての手紙で「ラヴェルはすぐに賞を取るべきだった」として次のように書く。「それによって彼は、あの幾分厄介で、受賞者を一日しか喜ばせるはずのない肩書から解放されていたでしょう」。1902年にドビュッシー唯一のオペラ《ペレアスとメリザンド》が初演されたとき、ラヴェルはのちに「アパッシュ」と呼ばれることになる友人たちと4階の回廊席に陣取り、声援を送った。

蜜月終焉、
「盗用」と非難

 蜜月はここまでだった。1904年1月8日、サン=マルソー夫人のサロンを訪問したラヴェルが、翌日初演される《版画》の第2曲〈グラナダの夕暮れ〉について、ドビュッシーが楽譜を求めた《ハバネラ》の主要主題を盗用したものだと言ったことが、夫人の日記に書きとめられている。もっと言うなら、生前未発表の2台ピアノ作品《リンダラバ》はさらに似ているし、《版画》の〈塔〉の終結部分も、ラヴェルの《水の戯れ》(1901)を連想させる。
 1906年1月にピアノ組曲《鏡》が初演されとき、30日付け「ル・タン」紙でドビュッシー擁護派の批評家ラロの記事を読んだラヴェルは、手紙で次のように反論している。「あなたは、かなり特殊なピアノ書法について長々と述べられ、それをドビュッシーの創造に帰しておいでです。さて、《水の戯れ》は1902年初めに公表されましたが、当時ドビュッシーのものとしては3曲の《ピアノのために》しか存在していませんでした」

自然の印象から表出

 剽窃(ひょうせつ)論争に悩まされたドビュッシーとラヴェルだが、2人のスタンスの違いははっきりしている。ドビュッシーは自然を好み、1912年の新聞インタビューでは作曲の秘密について、「海のざわめき、地平線の曲線、木の葉のあいだを吹きわたる風、小鳥の鋭い暗き声、そういうものがわれわれの心に、ひしめきあう印象を与えます。すると突然、こちらの都合などには少しも頓着なしに、そういう記憶の一つがわれわれのそとに拡がり、音楽言語となって表出する」と語っている。

工場や機械仕掛けのおもちゃ

 しかるに父親が発明家だったラヴェルは人工的なものを好み、身のまわりに機械仕掛けのおもちゃを置き、ラインの工業地帯を訪れたときは、「城のような形をして流れ出てくる鉄や火の大伽藍、コンベアベルトや汽笛や凄まじいハンマーの音が作り出す驚くべき交響楽」に魅了されている。
 1907年3月8日、ラヴェルの《博物誌》が初演された後、ドビュッシーは批評を書いたラロワへの手紙で、「ラヴェルがこの上なく才能に恵まれている」ことを認めつつ、こんな風に書く。「ただ私をいらいらさせるのは、彼の”いかさま奇術師”、もっと言うなら、椅子のまわりに花を咲かせてみせる”バラモン教の僧侶に扮した魔法使い”的な在り方なのです。残念なことに、いつも周到に準備されているそのやり方では、たった一度しか人を驚かすことはできません!」この「いかさま魔術師」的資質が、ラヴェルに見事な《夜のガスパール》を書かせ、ドビュッシーはその欠如のため、ポーにもと
づく《アッシャー家の崩壊》を完成させられなかったのだろう。

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国民音楽協会はフランスの音楽と新進作曲家を広めるために1871年に設立された
ドビュッシーはラヴェルに《夜想曲》のオーケストラ版を贈呈した。のちにラヴェルはこの曲を2台ピアノ版へと編曲している

à Maurice Ravel, en réelle sympathie. Claude Debussy. Avril 1901.
(モーリス・ラヴェルへ、真なる共感を込めて。クロード・ドビュッシー。1901年4月)

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ドビュッシーとラヴェル

1910年頃のラヴェル
1908年のドビュッシー

交流と対立の軌跡
20世紀初頭のフランスを代表する2人の作曲家、ラヴェルとドビュッシー。ドビュッシーは「ラヴェルがこの上なく才能に恵まれている」ことを認めつつ、「彼の”いかさま奇術師”的な在り方が私をいらいらさせる」という。
二人の間の友情と次第に芽生えるライヴァル意識、そして創作理念の決定的な違いに迫る。

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