青柳いづみこが振り返る ショパンコンクール100年の歩み(宝島 2025年10月号)

ショパンを巡る情熱が、芸術と技術、国境や世代を超えて激しくぶつかり合うー

今なお進化を続けるショパン国際ピアノコンクールの歴史を、ピアニスト・文筆家の青柳いづみこが読み解きます。

サッカーのような大会を…!
ショパンコンクールの幕開け

 ショパンコンクールは、ショパンの作品だけによって競われる、きわめて特殊なコンクールである。1927年、ショパン高等音楽院教授のイェジ・ジュラヴレフによって創設された。
 ジュラヴレフはショパンの弟子ミクリに習ったミハウォフスキの弟子に当たる。1920年代にショパンの作品は、「過度にロマンティックで、危険なまでにセンチメンタルな音楽」と捉えられていたという。そんな風潮を嘆き、本来の芸術性を取り戻したいと願っていたジュラヴレフは、あるときサッカーの試合に興じる若者たちを見て、世界中の若いピアニストがショパンを弾いて競う大会の開催を思いつき、師のミハウォフスキや盟友のジェヴィエツキに協力を求めた。こんな経緯から、ショパン作品に求められる「芸術性」とともに「技術性」の要素も加わることになる。
 1927年1月、第1回ショパンコンクールが開かれ、8ヵ国から26名が参加した。優勝はソ連のレフ・オボーリン。第2、3位はポーランドで、4位はソ連。このとき、のちの作曲家ショスタコーヴィチも参加しており、上位入賞に相当するポイントを得ていたが、ポーランド人を入賞させるため操作が行なわれたという説もある。初回からソ連対ポーランドの図式があったわけだ。
 ポーランドのチェルニー=ステファンスカとソ連のダヴィドヴィチが同率1位となった第4回では、13人の入賞者全員がポーランドかソ連だった。第5回はポーランドのハラシェヴィチが優勝し、ソ連のアシュケナージが第2位にとどまり、彼の優勝を信じていたベネデッティ=ミケランジェリが確認書にサインせずにワルシャワを去るというできごとがあった。中国のフー・ツォンが東洋人として初めて第3位に入賞し、日本の田中希代子も第10位に入賞している。

芸術性と技術性、揺れる解釈
前代未聞のスキャンダルに揺れる

 第6回でイタリアのポリー二が優勝し、西欧で初めての優勝者となった。ポリーニの正確無比な技巧に感嘆した審査員のアルトウール・ルービンシュタインが、「我々の誰も彼ほどピアノが弾けない」とコメントするなど、創設以来の二大目標のうち、「技術性」が前面に出た大会となった。[技術性」は価値基準がはっきりしているが、「芸術性」は明確な基準が定めにくい。「過度のロマンティシズム」を排するのはよいが、「ショパンらしさ」をどう判断するのか……。ショパンコンクールは常に解釈の問題に翻弄されることになる。
 ショパンの孫弟子、ミハウォフスは第1回の審査員として参加していたが、門下生が予選落ちしたことを理由に本選の審査を辞退してしまう。ミクリの系統に代わって主導権を握ったのさ、ジュラヴレフとともにコンクールの創設にかかわり、7回にわたって審査員、第4、6、7回には審査委員長を務めたジェヴィエツキである。折から「楽譜に忠実に」をモットーとする新即物主義が台頭し、ジェヴィエッキもその流れにくみしていた。門下には、第4回の優勝者チェルニー=ステファンスカと第5回優勝のハラシェヴィチ、ナショナル・エディションの校訂者エキエルがいる。
 ジェヴィエツキは、アルゲリッチが優勝した第7回でも、第3位のマルタ・ソシンスカと第4位の中村紘子を指導している。このとき、審査の傾向が過度に「楽譜に忠実」に偏っているとしたジャーナリストや批評家が、セミ・ファイナルや本選に進めなかった3名のピアニストに「ポーランド音楽評論家特別賞」を授与するという事件が起きた。この中に日本の遠藤郁子がはいっていた。
 1970年の第8回からは、開催時期がショパンの命日付近の10月になり、現在に至っている。創設以来のジェヴィエツキとジュラヴレフが退き、審査員の顔ぶれが一新された。優勝は、2025年のコンクールの審査員長となるギャリック・オールソン。日本の内田光子が第2位、第18回コンクールの第2位反田恭平の師匠パレチニが第3位にはいっている。
 1975年の第9回では、ツィメルマンがポーランド勢として20年ぶりに優勝し、ソ連のディーナ・ヨッフェが第2位にはいった。日本の音楽評論家野村光一はヨッフェの演奏を高く評価し、日本にロシア・ピアニズムを導入するべく奔走することになる。
 1980年の記念すべき第10回には、大変なスキャンダルが起きた。これまでは「芸術性」と「技術性」が対立していたが、この回から新たに「個性」という要素が加わる。第1次予選の結果発表後、イギリスの審査員ケントナーは「ユーゴスラヴィアのポゴレリチが第2次予選に進み、自分の門下生4名が落ちた」ことを不服として審査員を辞退する。第2次予選になると、「ポゴレリチを落とした」ことを不服として、新審査員のアルゲリッチが審査をボイコットしたのである。
 ポゴレリチは圧倒的な技巧の持ち主だったが、解釈が正統的ではなかった。私の師匠安川加壽子も審査に加わっていたが、彼の演奏について速い部分は遅く、遅い部分は速く弾き、めちゃくちゃだが魅力はあった」と回想している。安川の資料に審査表が残っており、ポーランド人審査員の中には彼のマズルカに25点満点で1点をつけた者もいた。平均的に22〜23点を獲得したベトナムのダン・タイ・ソンがアジア人として初めて優勝し、日本の海老彰子は第5位となった。
 1985年の第11回からは、ジェヴィエツキの愛弟子エキエルが審査員長に就任。ソ連のブーニンが優勝し、フランスのマルク・ラフォレが第2位、長く審査員を務めているポーランドのヤブウォンスキが第3位、日本の小山実稚恵が第4位に入賞している。小山はチャイコフスキー国際コンクールでも第3位に入賞しており、これは世界初の快挙だった。
 1990年の第12回は、優勝者が出ないコンクールになった。日本人出場者の成績は優秀で、第3次予選の14名中7名が日本人コンテスタントで「7人のサムライ」と呼ばれた。この中には、2025年に審査員に就任した児玉桃の名前も見える。1位なしの2位に、2025年も審査員を務めるケヴィン・ケナー、第3位は日本の横山幸雄、第5位にも高橋多佳子がはいった。
 やはりエキエルが審査員長を務めた第13回も優勝者なしに終わる。本命視されたロシアのスルタノフはフランスのジュジアーノと同率2位になり、授賞式と入賞者演奏会をボイコットした。「審査員の皆さんは素着らしいピアニストですが、時代遅れです。気品のある優等生的な弾き方は審査員にとって都合がいいからということでしかないように思われます」とのコメントを残して。

アジア系ピアニストの躍進と
審査基準の価値観の変化

 1949年の第4回から審査員に就任し、第5回を除いて1995年の第13回まで9回にわたって審査員を務めたエキエルは勇退し、2000年の第14回からは、ヤシンスキが審査員長に就任した。1975年に優勝したツイメルマンの先生である。2015年と2021年は、2005年に優勝したポーランドのブレハッチの師匠ポポヴァ=ズィドロンが審査員長に就任している。
 応募者は増加する一方で、1995年からは、従来の書類選考に加えて動画提出が義務づけられることになった。2010年のときは、この件で大きな問題が起きた。最終的に優勝したロシアのアヴデーエワが動画審査で落とされていたことが、審査員の一人フー・ツォンの抗議で判明したのである。抗議は認められ、アヴデーエワと同程度の点数のピアニストがそろって予備選に進んだ。
 2025年の第17回からは、第10回
の覇者ダン・タイ・ソンがアメリカやカナダで指導するアジァ系のピアニストが、躍進することになる。チョ・ソンジンが韓国人として初めて優勝したが、第3位にはケイト・リウ、4位にエリック・ルー、第5位にイーケ・トニー・ヤンがはいった。ソンは自らの解釈を門下生に強要することなく、それぞれの個性を生かした指導で知られる。ジェヴィエツキ、エキエルの系統でやや保守的な傾向にあったショパンコンクールだが、ダン・タイ・ソン門下の進出を機に自由度が高まり、多様な解釈が認められるようになった。
 2021年には、カナダ国籍のブルース・リウがソン門下として初めて優勝し、JJ・ジュン・リ・ブイも第5位にはいっている。この年は、2005年に開始した動画配信と生演奏に見られる音響上の差異がにわかにクローズアップされた回でもあった。期待の人気ピアニストたちが2次・3次予選で敗退、配信で応援していたファンをざわつかせたのである。
 2025年度はこうした傾向がどのように変化するか、圧倒的多数を誇る中国勢とダン・タイ・ソン門下のアジァ系、そして日本勢の対決に注目が集まる。

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