【座談会】「愉快なクラシック-もっと気楽に楽しんでみよう」(銀座百点 2014年3月号)

音楽と出会ったとき

池辺晋一郎(作曲家)
青柳いづみこ(ピアニスト・文筆家)
青島広志(東京藝術大学講師)

——————————————

本誌 音楽に最初に触れたのはいつごろでしたか。

池辺 ぼくは、わりと小さいころからピアノを弾いて、作曲をしていましたね。

青島 ピアノがお家にあったとか?

池辺 そう、母親のピアノが。ぼくは病気のために、小学校に入るのが一年遅れてるんですよ。

青柳 病弱だったんですか?

池辺 そう。外で遊べないからピアノで遊んでいて、曲を書くのを覚えたんです。書き方を教えてくれた人は、当時大学生で、よくぼくの家に弾きに来て、連弾して遊んでいた。あるとき、ぼくがでたらめに弾いていたら、それを五線譜に書き取ってくれて、「きみが弾いたのはこれだよ」って。それで作曲がおもしろくなったんです。

青柳 音楽の道の恩人ですね。

青島 ねえ、ほんとに。

青柳 なかなか書けないですよね。すごいですよ。私が最初につくった曲は、小学校に上がる前くらいですか、『ヘビのにょっちゃん、にょろにょろちゃん』って曲なんですけど、転調しないんです(笑い)。

池辺 ヘビの曲り?

青柳 ヘビ飼ってたの。

青島 ええーっ。

池辺 それはわりと重い曲ですか。

青柳 いえいえ。青大将だから、かわいい感じの曲。

池辺 ぼくはまたヘビーな曲かと思った。

青柳 ライトな曲でした(笑い)。

池辺 青島君のお父さんは松竹だったんですよね。

青島 はい。新橋演舞場に勤めていました。俳優の衣裳や小道具などを扱う、小裂屋(こぎれ)をしていたんです。

池辺 芝居の仕事が多いので、お父さんのことは知ってたんだけど、全然結びつかなかった。あるとき、青島さんが「私の息子も先生と同業で」って言ったんです。「えっ、ご子息のお名前は?」「広志と申します」「うえーッ」って感じで。

青柳 なに?そのリアクション(笑い)。

青島 私は、小さいころ陰のう水腫という病気のために、なかなか外に出られなかったんです。それで、家にあった祖父の形見のオルガンを弾いてました。ラジオから流れてくる音を、祖母に「あの音弾いて」、「そしたら今度は左手つけて」と言われて、弾いていたんですね。

青柳 すぐにできたんですか?

青島 はい。私の場合は池辺先生のようにすぐに作曲ということにはならなくて、裕福な女の子のお家に行って、そこで先生からピアノのレッスンを受けていたんです。みんなで少女漫画を読みながらお紅茶を飲んで、「だれだれちゃん、弾いてごらんなさい」と先生に言われたら弾いていたんです。

池辺 ピアノと少女漫画は、そのとき身についたわけだね。

青島 そういうことです。曲というものを初めて書いたのは、たぶん小学校三年生くらいだったと思います。夏休みの宿題になにかを出さなければいけなくて、モーツァルトが四歳くらいで初めて作曲したというから、自分にもなにか書けるんじゃないかと思って書いたんです。それを母親に見せに行ったら、母親が「ふーん」と言って揚げたての天ぷらをその五線譜の上にジュッと置いて、それでおしまいだった(笑い)。

池辺 世間では、子どものころからピアノがじょうずに弾けたとか作曲したっていうのはすごいって言うじゃない。

青島 でも、実際にはあんまりそうじゃないんですよね。

池辺 そうそう。ぼくがすごいと思うのは、サン=サーンスだね。彼は二歳くらいのときにピアノをポーンと叩いて、その音が減衰して消えてなくなるまでジィーッと聴いてたらしいんです。

青柳 グレン・グールドもそうですよね。ずうっと音を聴いてて、全然ダンダン弾かなかったの。

池辺 そのほうが、ちょっと異常じゃないかと思う。子どもって、普通は音を出して喜ぶよね。

青島 青柳先生は、曲を書くという方向には行かなかったんですか。

青柳 そう。全然向いてなかったんです。いくつか作品はあるんだけど、ほんとにダメで。作文も理屈っぼくて、理科のレポートみたいと言われて、そっちもダメ。

青島 青柳先生が文章を書くようになったのは、いつごろからなんですか?

青柳 中学生ですかねえ。友達が立原道造が好きで、『ユリイカ』を読んでいたので、その影響で同人雑誌をつくって、私は最初に童話を書きました。

池辺 ぼくは、今でも立原道造すごく好きだよ。市販されている道造の詩は、ほぼ全部暗唱できますから。中原中也も覚えてます。昼夜を問わず覚えてます。

青柳 あははは。

池辺 ぼくは文章を書くのが、子どものころからものすごく好きでしたね。作文が好きで、やたら書いたし、わら半紙で自分新聞もつくっていましたよ。足の裏から頭へ?

池辺 ちょっと話が変わりますけど、「音楽をどういうふうに気楽に聴いたらいいんですか」ということを、最近取材でよく訊かれるんです。ぼくは「いや、初めから気楽なものですよ」と答えているんだけどね。

青島 ええ、私もその片棒をかつがされておりまして。

青柳 そうそう。よくテレビや雑誌で「わかりやすいクラシック」というのをやっておられますね。

青島 たぶん貴族の時代には、あまりまともには音楽を聴いていなかったでしょう。

青柳 そうですよね、長椅子に寝っころがって聴いてたりね。

池辺 「音楽が始まったときには音楽を足の裏で感じていたであろうという説」知ってる?

青柳 知らないです。

池辺 石器時代あたりは斧を持って獣を追いかけて、獲ってくると、集落の人みんなで足踏みして喜んでいたかもしれない。そういうときになにか歌ったかもしれない。「足の裏」で音楽を感じていた。それから時代を経て、洋の東西を問わず庶民の世界にも音楽があったのに、どういうわけか歴史に残るのは貴族階級のものだった。

青島 そうですね、音楽を聴きながら食事をしたり。

池辺 音楽鑑賞ってほどじゃなく、食事中に音楽を鳴らさせてた。だから音楽を「胃袋」で感じるようになってきた。

青柳 なるほど。

池辺 それから市民階級の時代になって、音楽家は恋を歌ったり美しい風景を歌ったりして、音楽を「胸」で感じるようになるんです。やがて二十世紀に入ると、シェーンベルクの十二音技法あたりがはしりだけど、音楽を「頭」で考えるようになった。そして二十一世紀になって、頭の上にはなにもないから、「足の裏」に戻るか「胸」に下がるか、どちらかしかない。現代はほとんどアスファルトで大地を感じられないから、音楽は「胸」に行ったほうがいいと思って、ぼくは、それをもって「旨」としていると。

青柳 またまた(笑い)。

池辺 胃袋で音楽を感じると言えば、バッハがいろんな場所に呼ばれて晩餐をご馳走になったときの、一回分だけ、メニューが残ってるんですよ。三十品くらい出てくるんです。

青柳 超豪華!

池辺 牛肉が出てきて、ほかにも鶏肉、羊肉と次々出てくる。すごい食事をしてたんだなと思う。

青柳 いいなあ。バッハさんは二重あごだし、ころころしてたし(笑い)。

池辺 毎日そんなものを食べてたわけじゃないでしょうけれども、二重フーガを書くかわりに二重あごに……(笑い)。

青島 モーツァルトは、最後のころに、チョウザメをもらったとか日記か手紙に書いてますよね。珍しいと思いました。

池辺 ロッシー二は、オペラを三十以上書いてるのに、三十七歳で作曲やめちゃって、後半生はほとんど料理のために費やしたよね。

青島 レシピが六百以上あるでしょう。ロッシー二は、自分の歌を歌ってくれた人たちに、自分でつくった料理を振る舞うのが好きだったみたいです。

青柳 格好いいですね。

青島 あのころのオペラは、序曲やなんかは適当でしょう。

池辺 そう。適当。

青島 お抱え楽士がいたし。

青柳 ピアニストのべネデッティ=ミケランジェリは、内弟子を三人置いていて、彼が全部料理をつくっていたそうですよ。池辺ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンも、料理するのが好きだよね。演奏家って旅が多いから、そのときの楽しみって言うと、食べることなんだよね。

青柳 食べることしかないです。その土地のおいしいものを食べる。

池辺 そうそう。あと、音楽と酒は非常に関わりが深い。ベートーヴェンはワインが好きで、相当コレクションがあったらしい。

青柳 ワインなんだ、ベートーヴェン。なんかビールっぽいけど。意外にハイソ?(笑い)。

池辺 おそらく安ワインだと思うよ(笑い)。音楽のルーツ

池辺 クラシックだけじゃなくて、ぼくはポップスも聴くし、エルヴィス・プレスリーも大好きだったな。ハリー・ベラフォンテも毎日聴いてましたね。『コットン・フィールド』とか。

青島 私はグループ・サウンズが好きでした。ちょうどそのころが自分の青春時代と重なるので。

池辺 日本のグループ・サウンズ?

青島 はい。

池辺 ぼくも好きだったよ。

青柳 堺正章のザ・スパイダース、ショーケンのザ・テンプターズ、ジュリーのザ・タイガース……。

青島 ただ私のルーツは、やっぱりビートルズなんだろうなとは思うんですけど。

池辺 ビートルズの曲は全部クラシックですよね。クラシックの作法が元になっていて、たまたまポップスだという顔をしてるんだけども、曲を聴くと、確かに大元はクラシックです。

青島 そうですね。

青柳 クラシックとポップスでは、CDの売り上げがゼロ三つくらい違うでしょう。

池辺 それは全然違う。

青柳 同じころデビューしたグールドの生涯レコード売り上げと、プレスリーのデビュー盤の売り上げは、ほぼ同じだそうですよ。

池辺 うーん……。

青柳 すごい話でしょう。クラシックはマイノリティーです。

池辺 ぼくは中学生のころ、六〇年代のアメリカン・ポップスが好きだった。キングストン・トリオとか、ニール・セダカ、ポール・アンカとか……。

青柳 私はね、演歌が好きでした。喉を震わせたり、こぶしを回したりするのがよかったんです。あと「全日本歌謡選手権」とか「スター誕生!」とか、歌手の発掘番組がすごい好きで、だから明菜ちゃんとか百恵ちゃんとかも熱心に観てました。

青島 青柳先生、クラシックでいちばん好きな作曲家は?

青柳 ベートーヴェン。

池辺 えっ、そうなの? ドビュッシーじゃなくて?

青柳 ベートーヴェンがいちばん好き。というか、ベートーヴェンさえいれば、ほかになにもいらない、っていうくらい(笑い)。ピアノ曲も交響曲も、蛇足がほとんどないという感じがするんです。逆に、苦手なのはバッハ。

池辺 ぼくは苦手なのはあまりいないけど、同時代の音楽家を比べて、どっちのほうがより好き、っていうのはあるな。ハイドンかモーツァルトだったらモーツァルトかな。

青島 私はピアノがうまく弾けないけれどもシューマンが好きです。

青柳 シューマンのピアノ曲は難しいですね。

池辺 いきなり現代に飛ぶけど、現代音楽にもおもしろいのがあるよね。ジョン・ケージというアメリカの作曲家が、ピアノの弦の間にボルトや消しゴムを挟んで弾くとか、そういうことを考えた。

青島 そうすると、不思議な音がするんですよね。

青柳 そう。ビョンビィーッとかギューッとか、ポコポコッとかね、ヘンな音がするの。六〇年代とか七〇年代はけっこう流行(はや)りましたよね。あのころはほんとに前衛の全盛期で、ジョン・ケージとかヤニス・クセナキスとか。

青島 ジョン・ケージがピアノので四分三十三秒ずっと弾かないでただ座ってるだけ、っていう有名な曲もありますよね。

池辺 いちばんおかしかったのは、ステージに六人の男が出てきて、客席のだれかをジィーッと見つめる。見つめられたほうは、イヤになって出て行く。「こうやって客席がカラになるまでこの行為は続けられる」っていう曲があるんですよ(笑い)。でも、だんだん客が減っていく中で、寝ている人がいて、いくら見つめても出て行かない。支配人が飛んできて「もうやめてくれ」って言ったから、「この曲は未完成に終わった」っていう、そういう話も聞いたことがあります。あっと驚くお話だらけ

青柳 以前、青島さんのオペラを観に行ったら、大柄な人が、舞台に出てくるところで頭をぶつけて、七針縫ったことがありましたね。青島 それで、代わりに私が出たんです。『メリー・ウィドウ』ですね。

青柳 そうそうそう。すごく覚えてます。

青島 女役をやってもらった男の人が、百八〇センチ以上の人で、出てくるときに頭を擦ってしまって。それに気づかなくて歩いて出て行ったら、突然血が吹き出して、そのまま裏に引っ込んだんです。私はそのとき演出をやっていて、すぐに裏に行って「どうしたのり?」と訊いて、急いで私がその服を着て出たんだけど、花柄の服かと思ったら、花柄は全部血だったんです。

池辺 ええ!? すごい凄惨な話だね。

青柳 もう裏はドタバタですよね。

池辺 指揮者って完壁だと思うでしょう。特に名を秘すけど(笑い)、もう亡くなられたんですが、ぼくがとても尊敬していて、ぼくの曲を四回くらい初演してくれた、日本の名指揮者がいらした。あるオーケストラのゲネプロ(本番前の総練習)のとき、その先生がタクトを振りながら「池辺君、ちょっと来て」と言うから、指揮台のところまで行って「なんですか?」って訊いたら、指揮をしながら「今、どこ?」って。

青柳 ほんとに?(笑い)。

青島 Yという方ですね。舞台から落ちちゃった方。

池辺 そうそう。

青柳 それは有名な話ですよね。振ってて夢中になって、舞台から消えてしまって。

青島 私、そのときオケにいました。落下して、しばらくしたらよじ登っていらした。よくケガしなかったと思う。

池辺 信じられないようなことがたくさんあるんですよ。数年前には、アシュケナージという有名なピアニストであり指揮者が、NHK交響楽団を指揮してて、左手に指揮棒刺しちゃった。

青柳 それは痛い!

池辺 世界的なピアニストだから手が大事でしょう。本人はすごい慌てて、そのまま楽屋へ引っ込んじゃったんです。

青島 その場合は、どうなっちゃうんですか、曲は。

池辺 しようがないから、急きょコンサートマスターがあと全部指揮したの。クラシックの世界って、すごくクソ真面目みたいに思われているでしょう。ところが、笑い話と、驚くようなエピソードだらけなんですよね。

青島 ほんとにそうですよ。

青柳 そうそう。固く考えず、一般の方々にも、もっと音楽を楽しんでいただかないといけない。

池辺 音楽がプロのものかアマチュアのものかなんて、そんな区別は昔はなかったんですよね。たとえば、モーツァルトが書いた『フルートとハープのための協奏曲』は、ある公爵とその娘のために書いた。

青柳 そう。アマチュアが弾くために書いたの。

池辺 アマチュアのためという意識はあったんだけれども、書いた楽譜には、アマチュアのためだからという配慮は、かけらもないですよ。おそらく当時の楽器の名手に書いたとしても、同じような楽譜になったと思う。たとえば、シューベルトは本当の天才だと思うけども、彼は周りの自分の仲間のために書いている。書いたものは技術的にも音楽的にもアマチュアじゃないけど、楽譜はアマチュアのためのものだった。だから、アマチュアかプロかなんて区別はたいしたことじゃないはずなんです。そういう意味で、音楽を楽しむ人は、「自分はただ聴くだけですからアマチュアです」なんて思わないで、「だからどうなの?音楽好きだったらいいじゃない」という精神を持っているべきだと、ぼくは思っているんです。

青柳 あんまりプロフェッショナルな耳を持つと、本質的なことがすり抜けていってしまう。重箱の隅をつつくようになるので危険ですよね。

青島 私は、音楽を聴いてくれる人

が、おもしろがってほしいと思っています。批評的に観るのではなくて、とにかくおもしろいものを観たいと思って、どこがおもしろいのかなと常に思って観てほしい。たとえば、どういう服を着ているのか、どういう顔の人がいるのか、どの人がカッコいいとか、そういう感想だっていいから、来てほしいと思いますね。興味を引く演奏会というのは、探してみればたくさんあるはずですから。

青柳 私は、高尚だと思えるクラシックでも、たとえば作曲家やピアニストを、みんなが知ってる芸能人やオリンピック選手にたとえたりして、もっと親しみを感じてほしいと思っているんです。これからも、たくさんの人にクラシックを身近なものと思ってもらえるように、書いたり弾いたりで表現していきたいと思っています。

(銀座東武ホテル「むらき」にて)

2014年3月5日 の記事一覧>>

より

新メルド日記
執筆・記事TOP

全記事一覧

執筆・記事のタイトル一覧

カテゴリー

執筆・記事 新着5件

アーカイブ

Top