ドビュッシーの青春:パリの詩人たちとの鮮やかな日々
講演者:青柳いづみこ(ピアニスト、文筆家、大阪音楽大学教授)
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの作曲家、クロード・ドビュッシー。ピニストであり文筆家、ドビュッシーの研究家として知られる青柳いづみこさんが、数々の芸術家との出会いに彩られたその生涯を語る。
「絶頂」は下降のはじまりでもある
おはようございます。今日は、大げさな言い方をすれば私が生涯をかけて研究・演奏しているフランス近代の大作曲家、クロード・ドビュッシーについてお話しします。ドビュッシーは1862年生まれなので、今年が生誕150周年ということで、各地でいろいろ記念の催しが行なわれていますが、皆さんに合わせて、彼の青春時代の話をしようと思っています。
この学園は、たくさんのスポーツ選手を輩出していると聞きました。私は自分ではスポーツは全然やらないんですが、スポーツ観戦は大好きです。一つは、スポーツ選手の競技人生、つまりその人が無名のころからはじまって、いろんな転機があって有名になり、それから絶頂を迎えて衰えていくという、その過程を見ることが好きなんですね。あまり優しい見方ではないんですが、何が有名になるきっかけになったか、何が下降していく契機になったか。スポーツ選手の競技人生というのはすごく短いので、そうしたいろんなきっかけが凝縮されて、非常に顕著な形で出てくるんです。
引退した選手の成績表などを見ていると、だいたい絶頂と下降に至るきっかけとは同時に来るんですね。皆さんもまだこれからずっと長い人生を送るわけですが、自分で「今絶頂だ」と思っているときは気をつけたほうがいい。絶頂ということは、それ以上上らないで下っていく一方なわけですから。
ここでは、ドビュッシーが「絶頂」に上るまでの話をしたいと思います。
貧困家庭に生まれたドビュッシー
これがドビュッシーの写真です。とにかく、どこもかしこも丸かった人ですね。特に、おでこに注目してください。ドビュッシーはおでこがものすごく出っ張っていて、お母さんのお腹から生まれるときもひっかかって大変だったんだそうです。
そのドビュッシーは1862年の8月、サン=ジェルマン・アン・レーという、パリ近郊の風光明媚な土地で生まれました。生家は今、ドビュッシー博物館になっています。
サン=ジェルマン・アン・レーって、今はおしゃれなお店が並んでいて、住むのにもお金がかかる土地なので、ドビュッシーは優雅な子ども時代を過ごしたんだなと勘違いされそうですが、真逆でした。お父さんは瀬戸物商を営んでいましたが、あまり稼ぎのない「ダメ親父」で、お店も2年ほどでつぶれてしまう。その後は、妻の実家に身を寄せたり、一時期は所在不明になったり、職を転々としていたようです。
ドビュッシーはその「ダメ親父」の長男で、ほかに弟や妹が4人いたんですが、1人は夭折、2人は里子にやられてしまい、両親の手元で育ったのはドビュッシーと弟1人だけ。そのドビュッシーにしても、小学校すら通っていません。若いころのドビュッシーが書いた手紙などを見ると、つづりの間違いが多く、決して教養のある人ではなかったことがわかります。
音楽家というと、だいたい上流階級のお金に不自由しない家に生まれて、小さいころからピアノを習ってというイメージがありますが、ドビュッシーは8歳くらいまで音楽とは縁がなかったし、海が好きで、船乗りになるかなと漠然と思っていたらしいです。そんな人が数奇な運命に翻弄されて、フランスを代表する作曲家になっていくわけですね。
さて、ドビュッシー一家は1867年、パリに出てきます。翌68年にお父さんが石版印刷店に勤めはじめて、やっと少しはいい暮らしができるかと思ったのも束の間、70年の7月に普仏戦争が起こります。まだそのころドイツという国はなくて、プロシアは諸侯の一つだったわけですが、そのプロシアとフランスとの戦いですね。9月には、セダンの戦いでフランス皇帝のナポレオン3世が降伏、捕虜となります。そしてその年の終わりには、プロシア軍によってパリは完全に包囲されてしまうんです。
包囲によって物資が外から届かないのでパリの経済は麻痺して、労働者も次々に解雇されました。ドビュッシーのお父さんも、せっかく得た石版印刷店での職を失い、区役所に勤めるようになります。
8歳のドビュッシーは、お母さんと一緒に南フランスのカンヌにいるおばさん−お父さんの妹ですね−の家に疎開することになります。包囲が長引くにつれて食料や燃料が不足し、人々はネズミやコウモリまで捕まえて食べるような状況になっていたからです。
実は、ドビュッシーが音楽に出会ったのはこのときでした。カンヌで、地元のアマチュア音楽家に手ほどきを受ける機会があったんですね。そうしたら、どうもこの子は耳がいい、音楽のセンスがあるということを言われた。これが、後にドビュッシーを音楽の道に進ませるきっかけになるんです。
普仏戦争の終結とパリ・コミューン
一方パリでは、1871年1月5日にプロシア軍による砲撃がはじまります。そのさなか、18日にはプロシア国王がベルサイユ宮殿でドイツ皇帝としての戴冠式を行い、統一ドイツ帝国が誕生しました。28日には休戦協定が結ばれて、戦争は終結。翌月にはティエール率いる臨時政府が成立しました。これに反発したパリの民衆が政府軍に対抗するために義勇兵として参加したのが「国民軍」。区役所に勤めていたドビュッシーの父親も、ここに入隊することになります。
3月18日に臨時政府が国民軍に武装解除を求めたことで、国民軍による反乱が本格化します。パリ・コミューン(人民政府)の成立ですね。世界で初めて起きた労働者階級による革命です。4月2日には、ベルサイユ軍(政府軍)との最初の戦闘が起こり、戦争が繰り広げられました。
しかし、実は国民軍は鉄砲を持つのも初めてというような兵士ばかりで、勝負は最初から見えていた。ドビュッシーの父親も、まったく戦闘経験がないのに中隊長にされてしまい、戦闘中に「突撃ー!」と言ったら兵士がみんな逃げてしまったという笑えない話が残っています。
そして5月21日から始まる「血の一週間」と呼ばれる戦闘でたくさんの人が殺され、28日にパリ・コミューンは崩壊しました。1万5000人から2万人のパリ市民が戦いの犠牲になり、3万5000人が捕虜になって、そのうち1万5000人が軍法会議にかけられたといいます。
本格的にピアノを学ぶ−数奇な運命のはじまり
このときに、コミューンの一員だったドビュッシーの父親も逮捕され、サトリー収容所というところに入れられてしまいます。カンヌから帰ってきたドビュッシーの母親が嘆願書を書いても受け入れられず、父親は4年の刑を宣告されます。仕方なく、一家はパリの小さなアパートに居を移しました。ただでさえ貧しい暮らしだったのに、お父さんが逮捕されて一家の働き手がいなくなるという悲劇なんですが、実はここからがドビュッシーの数奇な運命のはじまりでした。
お父さんのいるサトリー収容所に7月20日、シャルル・ド・シヴリーというシャンソンの作曲家が投獄されてきます。この人はコミューンの兵士ではなかったんですが、大変もてる人だったらしく、ある女性と結婚したら、前に付き合っていた別の女性に「あいつはコミューン側の兵士だった」と密告されて監獄に送られてしまったんだそうです。
そのシヴリーに、ドビュッシーのお父さんは「息子が音楽を習っていて、ちょっと耳がいいらしい」という話をします。そうしたら、シヴリーは「じゃあ、うちのお袋に筋見させたらどうだ」と言い出した。シヴリーのお母さんという人は、大作曲家ショパンのお弟子さんで、ピアノ教室を開いていたんですね。それでドビュッシーは、そのシヴリーのお母さん、モーテ夫人のところにピアノを習いに通うようになります。1871年秋のことです。
ヴェルレーヌとランボーニコレ街14番地にて
モーテ夫人の家はモンマルトルの丘の中腹、ニコレ街14番地にありました。その建物が今も残っているんですが、ここはフランス文学を専攻している方なら誰でも知っているような、大変な事件が起きた場所でもあります。
ポール・ヴェルレーヌという象徴派の大詩人がいるんですが、その奥さんがモーテ夫人の娘、つまりシャルル・ド・シヴリーの妹のマチルドでした。ヴェルレーヌがシヴリーと友達だったので、よく家に遊びに来ているうちにマチルドと会って一目ぼれしたんだそうです。
そのヴェルレーヌやマチルドも暮らすニコレ街14番地の家に、当時17歳の天才少年詩人、アルチユール・ランボーがやってきます。
ランボーは、本当に若いときから詩を作りはじめて、学校の作文のコンクールでも常に最優秀の成績を収めていました。「パリに出て詩人になるんだ」という野望を抱いて、有名な詩人に手紙を書いたり、自分の詩を送ったりしていたんです。ヴェルレーヌは、送られてきた詩を素晴らしいと思って、親しい詩人たちにカンパを呼びかけてパリまでの旅費を出してやりました。
こうしてランボーはニコレ街14番地の家に泊めてもらうようになるんですが、泥靴のままでベッドに入ったり、大事な本のページを切り取ったり、裸で日光浴したりするというので、2週間くらいで追い出されてしまった。ところが、ランボーの才能に惹かれていたヴェルレーヌは、ちょうど子どもが生まれたばかりだったにもかかわらず、ランボーと同性愛の関係に陥って、とうとうベルギーのブリュッセルに駆け落ちしてしまうんですね。
ドビュッシー少年がピアノを習いにニコレ街14番地に通っていたのは、ちょうどその時期でした。そんな中でも、モーテ夫人は非常に熱心に稽古をつけて、1年後にはドビュッシーはパリ音楽院のピアノ科に合格します。たった10カ月程度のお稽古で5倍の倍率を勝ち抜いたんですから、耳がいいという最初の判定は正しかったんですね。
ドビュッシーの貴族趣味
今でも私はちょっと嫌だと思うことがあるんですが、クラシック音楽というのは宮廷音楽から発祥したので、上流階級に認めてもらわないと上に行けないようなところがあります。ドビュッシーも、非常に貧しい家庭に育ったけれど貴族趣味のある人でした。
例えばパリ音楽院時代のドビュッシーについて、当時の友人がこう話しています。「音楽院の帰り、仲間たちのように食べでのある菓子を選ばず、高級菓子店のガラスケースからかわいらしいサンドイッチや小さなパイを選んでいる姿をよく覚えている」。かわいらしい小さなもの、繊細なものに、特別な偏愛を示したといいます。
また、小学校にも行っていなかったにもかかわらず、当時最先端の詩人にもいち早く目をつけていた。ランボーも若いころに手紙を書いたことのあるバンヴィルという詩人の詩集を、音楽院時代にすでに読んでいたと別の旧友が証言しています。そして、「彼の家に行くと、もう作曲家としての習作を作っていた」とも。
音楽院時代には、アルバイトにも精を出していたようです。これがスケールが大きくて、まず17歳のときには、ロワール川流域にあるシュノンソー城で、不眠症の奥方が明け方眠りにつくまでずっと隣の部屋でピアノを弾くというアルバイトをしていた。それから、18歳のときには、ロシアの大作曲家であるチャイコフスキーのパトロンだった女性の楽士としてヨーロッパ各地をまわり、見聞をひろめています。
パリではある合唱団の伴奏者として雇われるんですが、そこで出会い、恋仲になったのがヴァニエ夫人という14歳年上の人妻でした。彼女は、コンスタンティノープル街に所有していたアパルトマンの客間を開放してサロンにしたほか、一室をドビュッシーの仕事部屋として提供しています。
当時、上流階級には、このヴァニエ夫人のように、サロンを開いて若い芸術家たちを励まして、時には恋人にしたり、という女性がたくさんいました。彼女たちには社会的地位のある年の離れたご主人がいまして、こちらは若い妻の社交活動を静かに見守っている。
ヴァニエ夫妻もその典型例でした。妻のほうは当世風の美しい歌姫だったのに、夫は骨董品の収集が趣味という人。ちなみに、このヴァニエ夫のおかげで、ドビュッシーも骨董品収集が趣味になって、ちょっとバイトで稼ぐとすぐに高い骨董品を買うのでいつもピーピーしていたという話もあります。
ヴァニエ家のサロンで
このヴァニエ夫妻には、マルグリットという娘もいました。これも不思議なんですが、当時のこういう文芸サロンの娘さんというのは、母親の愛人についてとても親しみをこめて回想していたりする。マルグリットもそうで、ドビュッシーについてこんなふうに書いています。
「18歳のドビュッシーは、ひげのない大柄の少年で、額にぴったりと巻きつけた巻き毛が印象的だった(出っ張ったおでこを隠していたんですね)。非常に猜疑心が強く激しやすく、極度に感受性の強い彼は、ほんの些細なことで上機嫌になったり、またふてくされたり、プリプリ怒ったりした。また、両親が別の人間を家に招くことを非常に嫌った。知らない人間とともにいることに耐えられなかったので、そういうときは家にこられなかった。ちょっと変わり者で、ちょっとシャイな人だったが、心を許した人々の間では、大変に魅力的な人物だった」
さらに、ここからが大事です。「彼はせっせと本を読んだ。『僕は辞書をひくのが大好きさ。面白いことがたくさん覚えられるからね』。一般的な教養が身についていないので、それが詰まった辞書というものから、逆に教養を身につけたと、そう言っていた」。若いころのドビュッシーの手紙は非常に間違いが多いし、ぶっきらぼうで愛想も何もありませんが、後のドビュッシーは有名な手紙の書き手になりまして、エッセイや評論も書いているんです。
また、大の骨董愛好家であったマルグリットの父、つまりヴァニエ夫人の夫は、ドビュッシーと話をして、彼には骨董を見分ける確かな目がある、と言っていたそうです。さらに、「音楽に通じるためにはどんな詩篇を読んだらいいか」というテーマで長い議論を交わしたこともあったそうです。フランス語というのは、母音が少ないこともあってリズムやイントネーションを大事にするので、詩そのものが非常に音楽性を持っているんですね。
芸術全般のいろんな問題についてヴァニエ氏と議論することで、ドビュッシーは音楽家としての教養を身につけていったんですね。後に彼は多くの文芸サロンで、ポール・ヴァレリーやピエール・ルイスといった詩人たちと親しく交流して、彼らの詩をテキストにして作曲したり、オペラや歌曲の題詞を書いたりしました。その元になる教養が、このヴァニエ家のサロンで培われたわけです。
「キャバレー黒猫」と詩人たち
ドビュッシーが文壇にたくさんの友人を得るようになったきっかけは、シャルル・ド・シヴリーによって引き入れられた「黒猫」という文学カフェです。19世紀末のいわゆるデカダン派の巣窟ともいわれたこの店は、モンマルトルのロシュシュアール84番地に開店しました。リベラルで、ちょっと狼雑なエリアです。一説には、店主のロドルフ・サリスが、建物の軒下に黒猫を見つけたからこの店名になったともいわれます。
サリスはお金持ちの醸造メーカーの息子で、自分のところで作ったお酒を店で出していました。蔵元の経営するバーみたいなものですね。それで、他よりもアルコールが安いというので人気があったそうです。
さらに彼は非常なPRマンで、いろんな芸術のイベントの発案者でもあった。美術と文学、音楽を融合させることを目的に、友人の詩人や作曲家、小説家、画家などを集めて、自由な発表と議論の場を提供しました。評判が口コミで伝わって、人が押し寄せてくるようになります。詩人が新しく書いた詩を読んだり、作曲家が即興で弾き語りをしたり。無名の画家たちに発表の場を提供したりもしていて、ピエロの絵で有名なイラストレーター、アドルフ・ヴィレットも、エスプリに満ちたイラストで高く評価されました。
その「黒猫」に集まる詩人たちが愛読していたのが「リュテス」という新聞でした。リュテスとは、パリの昔の名前なので、いわば「江戸新聞」みたいなものですね。ここに「呪われた詩人たち(LesPoetesmaudits)」という連載が載っていました。先ほどもお話した詩人のヴェルレーヌが、自分が出会って啓発された、けれど社会的には無名な詩人たちを紹介する評論集です。ランボーや、ステファヌ・マラルメといった詩人たちの作品が次々に掲載されて、非常な反響を呼びました。
この連載が、1884年の4月に単行本として刊行されて評判になるんですが、この1884年という年は、フランス文壇にとって画期的な年でした。
1884年にはこの『呪われた詩人たち』のほか、19世紀末のデカダン(頽廃)文化に大きな影響を与えたユイスマンスの『さかしま(Aurebours)』が5月に刊行。それから、このころフランスで詩の主流になりつつあったサンボリスム(象徴主義)の機関紙も刊行されました。
ローマ留学、そして「ボヘミアン生活」へ
そんなふうに、フランス文壇で新しい潮流が起こった1884年、ドビュッシーは「ローマ大賞」の作曲部門で大賞を受賞します。この賞を取ると、ローマに2〜4年留学できて、ものすごくたくさん奨学金がもらえて、好きなだけ創作に専念できる。作曲家の卵にとっては願ってもない制度で、ドビュッシーも2回失敗して3年目の挑戦でようやく受賞できたんですね。
それで、ドビュッシーは1985年の1月28日にローマに旅立ちます。前の年に賞を取ったのに、ローマに行ったら恋人のヴァニエ夫人と分かれなきゃいけないというので、1年間もぐずぐずしていたんですね。留学生活を始めてからも、しょっちゅうパリへ帰ってヴァニエ夫人と密会しています。
もっとも、ヴァニエ夫人は一応人妻なので、あまりおおっぴらに付き合えないという事情もあったらしいです。ヴァニエ夫人は時々「迷惑だ」みたいなことを言ったりして、ドビュッシーも友人に、「彼女からの最新の手紙は、僕のパリ滞在が彼女に与えるわずらわしさを隠し損ねていた、パリに行っても会えなくて蛇の生殺し状態になるよりは、ローマに留まっていたほうがまだましだ」なんて手紙を書いています。
そしてもう一つ、ドビュッシーがパリに戻りたがったのには「ローマなんかにいては取り残される」という思いもありました。先ほどお話ししたように、パリではにわかに文学運動が高まって最先端の雑誌が次々に刊行されていた時期。ドビュッシーは作曲家だったけれど、その場にいて最先端の文学の潮流を身をもって感じたいという思いが強かったようです。
作曲の分野では、彼は自分自身があまりに新しかったので、他に新しい潮流を探す必要がなかったということもあります。実はローマ大賞のコンクールで2回失敗しているのも、あまりに前衛的な手法で書きすぎて、審査員が理解できなかった。3回目は多少妥協して、わかりやすく書いたので大賞を取れたという話があります。
結局、ドビュッシーは、87年に「このままローマにいたら自分はだめになってしまう」という手紙を書いて、留学期間を2年残してパリに戻ってきます。ここからドビュッシーのボヘミアン(放浪者)生活、定職を持たない芸術家としての放浪生活がはじまるわけですね。
ルイス、ヴァレリー、マラルメー詩人たちの出会い
帰国したドビュッシーは、そのころ別の場所に移転していた「黒猫」に通いはじめます。非常に自由で、ちょっと狸雑な雰囲気だった第一次の「黒猫」に対して、第二次「黒猫」はもうちょっとハイソなスペース。3階建てで、2階は詩とシャンソン、3階では影絵芝居が行なわれていました。
ボヘミアン時代のドビュッシーは、いろんな自分の「これから」を模索していた時期でした。作曲家というのは、ピアノ曲よりも、オペラや大規模なオーケストラ曲を書くのがステータスだったので、ドビュッシーもそういうものを書こうと努力していました。しかし、与えられたオペラの台本が自分の趣味に合わず、なかなか書けなくて苦労していたんですね。
ドビュッシーが世に出るために苦闘したこの時代は、象徴派の若い詩人たちの間で、いろんな歴史的な出会いが生まれた時期でもありました。
例えばピエール・ルイス。日本ではかなりマイナーな存在ですが、私はすごく好きな詩人です。ピュアな文体でちょっとエロチックな詩や小説を書いているんですが、同時にコーディネーターとして非常に優れた才能を発揮した人物でもありました。非常に社交的で、ドビュッシーのような、才能豊かだけれど閉じこもりがちで人見知り傾向のあるアーティストの心を開かせて、親しくなってしまう。親しくなると、今度は自分が親しくなった者同士をひきあわせて、また親しくさせてしまうという、得がたい才能の持ち主でした。
彼が、南フランスにあるモンペリエ大学の創立600周年記念行事に出席したときに知り合ったのが、当時大学生だった詩人のポール・ヴァレリー。このヴァレリーが象徴派の大詩人マラルメの大ファンだった。ヴァレリーからマラルメの詩を教えられて感激したピエール・ルイスは、なにしろ非常に行動的な人なので、すぐにマラルメに紹介してもらおうとします。
マラルメは、毎週火曜日に自宅で小さなサロンを開いていました。10人くらいしか入れない小さな部屋に、本当に尖った、少数精鋭の詩人たちが集まって、マラルメの話を聞く会でした。ピエール・ルイスはその一員だった知人のつてで、さも自分も昔からいたような顔をして常連になってしまうんです。
マラルメはそこでピエール・ルイスからヴァレリーの詩を見せられて、「素晴らしい」と評した。それを聞いたヴァレリーがマラルメに手紙を書いて、2人は交流を持つようになりました。91年にはヴァレリーがモンペリエからパリに出てきてマラルメを訪ね、息子同然のような間柄にまでなります。
それから、作家のアンドレ・ジッド。彼も、ピエール・ルイスからヴァレリーの話を聞いて、わざわざモンペリエに会いに行き、とても親しくなっています。こうして三巨頭の友情が生まれたんですね。
『ペレアスとメリザンド』に出合う
一方、ドビュッシーはそのころ、先ほどお話ししたようにあまり気のすすまない仕事に悩まされたりしていたわけですが、93年には火曜会の常連になり、マラルメとの親交が深まります。一緒にパレストリーナのミサ曲を聴きに行ったり、オペラ座に行ったりしていますが、一番重要なのはこの年の5月16日、ベルギー象徴派の劇作家メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』を観に行ったことです。メーテルリンクは、チルチル、ミチルの『青い鳥』を書いた人ですね。
ドビュッシーは、自分がオペラを書くためにどういう台本がいちばんふさわしいのかとずっと探していたのですが、『ペレァスとメリザンド』の舞台に接して、これぞ自分が求めていたものだと確信します。ここで一つ、ドビュッシーは階段を上ったんです。それで、友人を通じてメーテルリンクに「オペラ化させてほしい」と願い出ます。
でも、メーテルリンクはベルギーに住んでいて、音楽に関して全然詳しくなかったので、パリにいる友人のピエール・ルイスに「ドビュッシーという人はどんな音楽を書いているのか聞いてきてほしい」と依頼します。それでルイスがドビュッシーの家に行って、ここで初めてルイスとドビュッシーの親交が芽生えました。
メーテルリンクがオペラ化の許可を出した後、ドビュッシーはルイスと一緒にベルギーに会いに行くんですが、内容について相談をしているときも、メーテルリンクは恥ずかしがって何も言わない。ドビュッシーも非常に内気だったので、結局ピエール・ルイスがドビュッシーのかわりに全部しゃべって、メーテルリンクのかわりに全部答えて、という具合だったといいます。
理想の台本を得て作曲にはげんだドビュッシーは、1895年には『ペレアスとメリザンド』を作曲したものの、なかなか上演に漕ぎ着けられなくて悩んでいた時期があります。そんなときも、ピエール・ルイスは彼を助け、励まします。例えば、1898年の手紙では、自殺しようかとまで思い悩むときもあったドビュッシーに対して「君はとても偉大な男なんだよ。君は作曲を続け、世に知らしめる義務がある」と勇気づけています。
ドビュッシーの人生の「転落」
友人たちに支えられたドビュッシーは1902年、40歳になってようやく『ペレアスとメリザンド』を初演して一流作曲家の仲間入りをしました。
他にも、マラルメの詩「牧神の午後」にもとづくオーケストラ曲『牧神の午後への前奏曲』は彼の代表作になりましたし、ヴェルレーヌの詩にもたくさんの歌曲をつけています。ピエール・ルイスとの友情からは、『ビリティスの歌』という美しい歌曲集が生まれました。ポール・ヴァレリーとの間にも、実現はしなかったけれどバレエ音楽を書く話がありました。
ボヘミアン時代に優れた詩人たちと交わって、彼らから霊感を得てたくさんの素晴らしい作品を書き、40歳でようやく作曲家として一流になった。ここまでが、ドビュッシーの右肩上がりの人生です。
最後に、そこに水をぶっかけるような話ですが、ドビュッシーは1904年に、糟糠の妻リリーとてもよく尽くしてくれた庶民階級の女性だったんですが、彼女を捨てて、上流階級の銀行家の奥さんと駆け落ちしてしまいます。フランスでは友人関係もカップルが基本ですから、ボヘミアン時代に親しくしていた詩人、作曲家たちも、ドビュッシーが自分たちとの友情も裏切ったと感じて、次々に彼の元を去って行ってしまいます。
ここから先は本当に暗い、閉じこもりの人生が始まります。ですから最初に申し上げた、絶頂は転落への第一歩というのは、ドビュッシーの場合には非常に当てはまるのではないかと思います。
ただ、その苦しみの中で、ドビュッシーはさらに素晴らしい音楽を書きつづけました。もちろん、彼は非常にたくさんの女性を傷つけたし、最初の妻リリーはドビュッシーに捨てられた後、ピストルで自殺未遂をしています。それだけつらい思いをさせた一方で、我々には素晴らしい音楽作品が残されました。とても複雑なんですが、傑作が残されたことに感謝する思いもあります。そして、すぐれた芸術作品というのはしばしば、そうした周りの人の犠牲の上に出来上がっているのかもしれない。そんなことを考えたりもします。