「3つのアラベスク—宮城道雄とドビュッシーをめぐる随筆 第二回 ジャンルを越えて」(宮城会会報223号 2015年9月)

「フランス印象派音楽と近代日本」という副題をもつ佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人』(昭和堂)は、明治以降の洋楽黎明期におけるフランス音楽受容を扱ったすぐれた評論である。

永井荷風、上田敏など文学者によるフランス音楽の紹介、大田黒元雄のような評論家による導入、山田耕筰や池内友次郎はじめ作曲家による研究と継承……と並ぶ中、目をひくのは、邦楽界からのアプローチにもページが割かれていることだ。

大正から昭和初期にかけて、本居長世や吉田晴風、宮城道雄らを中心に、邦楽と洋楽の双方の手法を取り入れて新しい日本の音楽を創ろうとする試みがあった。

「音楽の世界的大勢と日本音楽の将来」と題した(一九三六年『騒音』所収)宮城のエッセイによれば、大正十年前後に本居や吉田らが会合したとき、「従来の純日本音楽との区別を明らかにしたいという話が出て」彼らが演奏する際には必ず「新日本音楽」という名称をつけることになったという。

もっとも、宮城自身はこの名称には懐疑的だったようだ。ほんの一時の仮の名が通り名になってしまい、一種独特の団体でもあるかのように世間から思われているのは好ましくないと書いている。

「凡そ、新と名のつくものに碌なものはないと思う。新発明何何とか、新流行何何というように、大抵その内容は見えすいたものが多い。私たちの新日本音楽も、これと同じようなものであっては、それこそ恥辱であると私は思っている」(「音楽の世界的大勢と日本音楽の将来」)

前回述べたように、京城で過ごした青年期にレコードで洋楽を聴き込んだ宮城は、ドビュッシーやラヴェルに代表されるフランス近代の作曲家たちが、従来の技法に行き詰まり、東洋の語法をよりどころに道を切り拓こうとしていることを敏感に感じとっていた。

「ドビュッシーのセロとピアノの奏鳴曲の中の一楽章をきくと、セロの使い方には確かに支那の蛇皮線の趣がある。(中略)又、ギリシャ神話をとり入れたオーケストラをきくと、洋楽器を用いていながら、日本の雅楽のような感じを巧みに現わしている」(同前)

ドビュッシーの《チェロとピアノのためのソナタ》は最晩年の作品だが、ピチカートを不気味に響かせる手法は、若いころにパリ万博で聴いたガムランのオーケストラからの影響が認められるというから、宮城の直感もあながちピントはずれでもないわけだ。「ギリシャ神話を取り入れたオーケストラ」というのは、おそらく管弦楽のための《夜想曲》の第三曲「シレーヌ」だろう。ドビュッシーは、舟人を誘惑するセイレーンたちの歌声を、歌詞をもたない女声合唱で表現してみせた。調和しない音程関係で平行移動する不思議な歌声は、ちょうど笙のような音響現象をもたらしている。

ドビュッシーは同世代の作曲家たちに先んじて大胆なハーモニーを使ったために和声法の革命家と言われたが、彼自身は「自分の音楽はどこまでも旋律だ」と書いている。ある音が鳴らされると、それにともなう倍音も発生する。ドビュッシーはその倍音にあたる音も楽譜に書きこみ、メロディと一緒に移動させた。だから原理から言っても笙に通じるところがあるわけだ。

宮城はこうした世界の動向をふまえて、「洋楽とか邦楽とかの立場などを、いつまでも固守する時代ではないと思うし、そんなことはもうとっくに過ぎ去っている筈だと思っているのである」と主張し、「日本の国民性を採り入れた世界的なシンフォニーが日本から盛んに生れるようになってほしいと思う」と書く。あたかも三十年後の武満徹《ノヴェンバー・ステップス》の誕生を予言しているかのようだ。

宮城にとって、日本音楽に西洋音楽の要素を取り入れるに際して一番ネックになるのが和声だった。従来の日本音楽は、旋律に重きが置かれ、和声はあまり発展しなかったために、ヨーロッパ人の耳には幼稚きわまるものに聴こえるのも致し方ない。かといって、洋楽の和声をそのまま日本の楽器にあてはめるのには無理がある。「日本音楽に適した、日本特有の和声」を編み出すことが宮城の最重要課題となった。

創作にあたって、宮城は二つの方法をとる。ひとつは古楽を復活させ、現代的な色彩を加えること。もうひとつは、洋楽のスタイルにのっとって邦楽を発展させること。

楽器の混用については自由な考え方で、邦楽器だけで不足するところは洋楽器で補えばよいし、洋楽器が主となって邦楽器がそこに加わってもさしつかえない。別に洋楽器を邦楽器より優れたものとするわけではなく、楽器に囚われない態度のひとつのあらわれだという。

この、「何ものにも囚われない」というのが、宮城道雄の一番優れた点だったのではないかと思う。

「囚われるということは、一面には自ら亡びるということが暗示されている」とか、「むやみに古いものを退けるのもよくないことであるが、そうかといって、新しいという事をねらうのも、危険である」という彼の言葉は、今の時代、音楽のみならず文化全般で、従事する人々すべてが噛みしめなければならない教えといえよう。

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