アレクサンドル・デュマ「黒いチューリップ」
二十世紀初頭のパリで活躍したエリック・サティのピアノ曲に、「童話音楽の献立表」という組曲がある。2曲目は、「チューリップの小っちゃな王女さまが何んて仰言ってるか知っる?」。長いタイトルのわりには、曲はたったの2ページ。
楽譜の上にせりふが書きつけてある。
「わたし、キャベツ・スープが大好きなの」と、王女さまは言う。「でも、かわいらしいママの方がもっと好き」。
アンデルセン童話の「おやゆび姫」のママは、子宝に恵まれないので魔法使いから大麦の種をもらってきた。植木鉢にまいたところ、きれいなチューリップが咲いた。赤と黄色の花びらにキッスすると、花がぱっと開き、中におやゆび姫が座っていたとある。
チューリップといえば、オランダ。マイケル・ポーラン『欲望の植物誌』によれば、オランダに「チューリップ熱」が巻き起こったのは、十七世紀中ごろのことであるらしい。花の詳細と出荷予定日を記した手形が証券のように取引され、珍しい品種はどんどん値ががつりあげられた。赤と黄の縞模様のものはひと月で十倍以上、黄色に赤いしぼりはいった花は、何と三十倍にはねあがったという。
アレクサンドル・デュマの『黒いチューリップ』は、ちょうどその時代のチューリップ栽培合戦をめぐる壮大なロマンである。
園芸協会が黒いチューリップに莫大な賞金を出すことになり、栽培家たちはこぞって育成に精を出していた。天才的園芸家のコルネリウスはコーヒー色のチューリップを栽培するまでになっていたが、ライバルに密告され、無実の罪で投獄されてしまう。
球根をひそかに持ってきたコルネリウスは、牢番の娘ローザと恋仲になり、自分のかわりに栽培してもらう。ローザは、恋人の心を奪うチューリップに焼き餅を焼きながらも、見事に黒い花を咲かせることに成功した。
ローザが鉄格子の間から見せてくれた黒いチューリップは背が高く華やかで、花は黒玉のような美しい輝きを放っていた。
「その花に接吻してあげてね」と娘は言う。
「コルネリウスは、息をひそめて、その唇のさきで花の先端にふれた。たとえそれがローザの唇であろうと、いままで女性の唇にあたえる接吻で、これほど深く彼の心にはいったものはなかった」(松下和則訳)
現存する最も黒に近いチューリップは「夜の女王」という魅力的な名前を持っている。ややえび茶がかった艶のある濃い茶色の花。チューリップの品種は長つづきしないので、育種家たちは新たな黒い花の栽培に躍起になっているという。