「生誕150年ドビュシーの多面性 」(読売新聞 2012年12月21日)

「黒猫」の頽廃的輝き

2012年は、フランス近代の大作曲家クロード・ドビュッシーの生誕150年だった。

ドビュッシーは、『亜麻色の髪の乙女』『月の光』など優美な作品で知られる。もっぱらモネやルノワールなど、印象派の絵画との結びつきが強調されてきたが、2月からパリのオランジュリー、7月からは東京のブリヂストン美術館で開催された「ドビュツシー音楽と美術」展では、印象派以外の絵画や象徴派の詩人とのかかわりも紹介され、ドビュツシー音楽がより拡がりをもって理解されるようになったと思う。

しかし、大衆音楽・芸能にもアンテナをのばしていた彼の多面性を知るためには、さらに別の領域にも踏み込む必要があろう。

ドビュッシーが青春時代を送った19世紀末パリは、ロートレックが描いたレビュー小屋「フォリ=ベルジェール」に代表される娯楽施設が流行し、多くの文人を集めた時代である。

ドビュッシーもまた、モンマルトルの歓楽街に眺染みの一人だった。赤い風車が印象的な「ムーランルージュ」でロートレックと出会った彼は、画家宅で催された大晦日の宴に招待された。「ドビュッシーのピアノに合わせて(ダンサーの)ジャーヌ・アヴリルは踊り、ロートレックは歌い……」という垂涎のレポートが残っている。

9月からパリのモンマルトル博物館で開催されている「『黒猫』とその周辺」は、そんな自由で頽廃的な雰囲気が体験できる楽しい展覧会である。日本では、フランスに先駆けて「陶酔のパリ・モンマルトル1880~1910」というタイトルで、2011年4月から12年5月まで各地で開催された。

1881年、モンマルトルの丘の麓に開店した文学キャバレー「黒猫」は、19世紀末の文芸の発信地だった。店主が醸造元の息子で酒が安く手にはいったこともあって評判を呼び、有名・無名の詩人、音楽家が集い、詩を朗読したり、アップライトのピアノでシャンソンを弾き語りした。店の壁には、シンボルである黒猫の絵とともにカリカチュア(戯画)や愉快なイラストがところ狭しと飾られていた。

「黒猫」といえば、ここで伴奏ピアニストをつとめたことがあるサティの名が浮かぶが、実は、兄貴ぶんのドビュッシーのほうが関係は深い。「黒猫」で活躍したシャンソン作曲家の母親は、ドビュッシーの最初のピアノの先生だった。おそらくその縁から、ドビュッシーはごく早い時期から「黒猫」の常連になった。

「黒猫」の看板画家は、ドビュッシーの楽譜をしゃれたイラストで飾ったし、有名な「黒猫」ポスターを描いたスタンランは、作曲家のカリカチュアを描いた。ドビュッシー自身も「黒猫」詩人たちの詩をもとに、歌曲やモンマルトルふうのシャンソンを残している。

「黒猫」は1897年に閉店したが、モンマルトルの卑俗で頽廃的な文化は、ドビュッシー音楽のべースのひとつでありつづけた。

たとえば、ピアノのための『前奏曲』の「帆」は、港に停泊したヨットの帆が風にゆらめくさまをあらわした作品として紹介される。しかし、このタイトルにはもうひとつ「ヴェール」という意味がある。このヴェールは、「フォリ=ベルジェール」の人気ダンサー、ロイ・フラーが「旋回ダンス」を踊るときに使用した薄絹のことだという。ヨットの帆とレビュー小屋のダンスではずいぶん違う。ドビュッシー自身が二重の意味を楽しんだふしがあるが、ときにはこうした方面から光を当てることによって、演奏するほうも聴くほうにとっても、さらに官能的な世界が展開されるにちがいない。

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