【連載】「作曲家をめぐる〈愛のかたち〉第1回」(新日本フィルハーモニー交響楽団 2003年10月号)

プログラムエッセイ

立ちのぼる愛

音楽は「愛」そのものだ、と思うことがある。母性愛、異性愛、友愛、師弟愛・・・。愛に言葉はいらないっていうじゃないですか。ドビュッシーは言った。「言葉がとだえたところから音楽がはじまる」。
恋愛も言葉がとだえたところからはじまる。それまで仲良くあれこれしゃべっていた恋人たちが、急に黙りこくって、お互いの目をみつめあう。二人の間に通いあうもの、それが音楽だ。

頭と心から放たれて宙にふわふわ浮くもの、ロマン主義時代にはポエジーと呼んだが、それに音の高さやリズム、響きを与えるのが作曲家。インスピレーション源はさまざまだが、実人生の出来ごと──恋人ができた、失恋した、子供が誕生した、親しい人が亡くなった、等々──がきっかけになることも多い。

それを受け取って、またふわふわしたものに変換し、実際のオトにするのが演奏家。それを受け取って、自分の中にふわふわしたものを生じさせるのが聴衆。仲介役の演奏家としては、何とか作曲家にとっての〈愛のかたち〉を変えずに、聴衆にとっての〈愛〉に受け渡したいところだ。

標題音楽でもないし、テキストをともなう音楽でもないのに、作曲家が恋をしていることが一目瞭然の作品というものがある。たとえば、定期でもとりあげられているショパン『ピアノ協奏曲第2番』。めったに自作の文学的背景や個人的背景について語らなかったショパンだが、この最初の協奏曲の第2楽章については、珍しく手紙でふれている。

「彼女のことを夢み、彼女への想いでぼくの『コンチェルト』のアダージオを書いたのだ」(小松雄一郎訳)

「彼女」とは、ワルシャワ音楽院の声楽科の学生コンスタンチア。レース細工のように繊細なフィギュレーションのすき間から、抑えようなのない恋心がにじみ出る。実際に弾いていると、ちょっと恥ずかしくなってしまうぐらい甘い。

といっても、ショパンの〈愛のかたち〉は、大声で「あなたを愛す!」と叫ぶようなものではない。内気で、秘められた、しかしマグマのように熱い気持ち。親友への手紙では心情を吐露するのに、実際に会うと、なかなか告白できない。ショパンはロマン主義全盛の時代に生まれたが、リストやシューマンとはずいぶん違った気質の持ち主だった。

やはりプラトニックな〈愛〉が立ちのぼってくるのは、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第4番』。5番のシンフォニーと同じ「運命の動機」を使っているのに、この柔らかさ、おずおずと控えめな感じはどうだろう。当時テレーゼ・フォン・ブルンスヴィクの妹で未亡人のヨゼフィーネと恋愛中だったベートーヴェンは、厳格な家庭に育った彼女の信仰とモラルに阻まれ、結局結ばれないまま終わったという。

「あなたにお会いしたとき、けっしてどのような愛情も抱くまいと、私はかたく決心していました。しかしあなたは、私を征服してしまったのです」「愛する、いとしいただひとりのJ!みずから課した禁制をのりこえまいと、私はどれほど自分と戦ったことか」(青木やよひ訳)

演奏する側もだから、ベートーヴェン風の〈愛のかたち〉に合わせて、蛇口を全開にしないように気をつけなければならないだろう。

いっぽう、めでたく意中の人をゲットした喜びを爆発させているのは、グリーグ『ピアノ協奏曲イ短調』。本来憂鬱症だったグリーグだが、ソプラノ歌手のニーナと結婚した翌年に書かれたこの曲は浮き立つようなロマンティシズムに満ちあふれていて、弾く方まで新婚気分になってしまう。

やはりアルマとの新婚生活のさなかに『交響曲第5番』を書いていたマーラーのケースは、もっと複雑だ。作曲家が41歳のときに結婚した19歳年下のアルマは、ツェムリンスキーに師事した作曲家の卵で、すでに自作の楽譜も出版していた。しかし、シューマンとクララの夫婦の絆が、クララの作曲願望によって妨げられたと考えたマーラーは、新妻に作曲を禁じ、もっぱら写譜職人をつとめるように命じたのである。

最初の子供を妊娠中だったアルマは、マイアーニッヒに滞在中、作曲小屋から5番のスケッチを持ってくる夫を迎え、完成した部分をせっせと総譜の形に書き写した。
夫は、書き終えたばかりの箇所をピアノで弾いてきかせる。作品の誕生の瞬間。妻は、自分が気に入った部分はすぐにほめたが、注文をつけることも忘れなかった。たとえば、終わりのコラール風の箇所。「これは教会風でおもしろくないコラールだこと!」マーラーは抗議する。「でもブルックナーをごらん!」

同業者同士の緊張を感じる夫。一方的に奉仕させられる妻。そんな中で作品は完成された。『グスタフ・マーラー辞典』の著者ジルバーマンは、多くの論評者が5番の交響曲に恋愛感情の発露を見ようとするのは間違いだ、と語る。なるほどマーラーは、彼の音楽に魂のすべてを、とりわけ「憧憬」を注ぎ込んだ。しかしその『憧憬』はより次元の高い普遍的なもので、個人的な体験が音楽表現に影響を与えることはなかった。「彼の筆によってシューベルト的な意味での愛の歌が書かれることは決してなかったのである」(山我哲雄訳)

もっと言うなら、マーラーの〈愛のかたち〉そのものが、単純な恋愛ではなかったのである。錯綜した感情のもつれが作品に深みと陰影を与えているとすれば、アルマもまた、写譜以上の貢献をしたといえないだろうか。

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