【連載】 随想「雲の上で知った地震」(神戸新聞 2011年3月15日夕刊)

東日本大地震が起きたとき、私は成田空港上空にいた。 

パリからの飛行機が着陸態勢にはいると知らされたまま、いっこうに到着する気配がない。関東地方で地震が発生したため、このまま中部空港に向かうとのアナウンスがあった。家族は大丈夫だろうか、家は? と不安でいっぱいになった。 

到着後、機内で待機させられる。多くの飛行機が中部に降りたため、空港があふれてしまったらしい。携帯電話もなかなか通じない。乗客の方から、震源地は東北沖で、ものすごい規模らしいことが伝えられ、なおさら不安がつのる。家族の無事を知らせるメールがはいったときの嬉しかったこと! 

4時間ほどしてやっと降機したものの、新幹線の上りは運休、名古屋市内のホテルはすべて満室。下りの「こだま」が一本出ることになったので、京都の友人宅に泊めてもらうことにし、パリからの荷物をかかえて乗り込んだ。5時間遅れとのことで、デッキまで人であふれている。 

夜遅く到着し、テレビをみたときは、言葉を失った。規模の違いこそあれ、祖母の家がある但馬が台風23号の水害に見舞われたときのことを思い出したのだ。

あのとき、私はようやく再開した山陰線で但馬入りし、変わり果てた集落の様子に立ちつくしていた。円山川の堤防が決壊し、水位は3メートルにも達したという。電気も消えて真っ暗な中、迫りくる水の脅威。どんなに怖かっただろう。多くのお宅が床上浸水のところ、高台にある祖母の家は難を免れた。そのことを申し訳ない、と思った。 

そして今回もまた、空港や駅で夜明かしすることもなく、友人夫妻の暖かいもてなしを受けながらテレビを見ている自分を、私は心底申し訳ないと思った。

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