ドビュッシーは、ショパンとリストの遺産をひきつぎ、ピアノの世界に新たな地平を開いた。バッハと18世紀ロココの作曲家を愛し、チェンバロの技法を採り入れつつ、革新的な和声法と旋法性でまったく新しいピアノ技法を編み出した。ペダルを駆使し、ピアノから多彩な響きを引き出してみせた。視覚と嗅覚、触感と味覚など、五感の喜びを音に翻訳してみせた。〈月の光〉のように親しみやすい作品も、〈霧〉のように神秘的な作品も、〈雪の上の足跡〉のように悲しい作品も、〈喜びの島〉のように官能的な作品も、〈ミンストレル〉のように愉快な作品も書いた。
ドビュッシーのピアノ曲は、単なる指の喜びでも感覚の喜びでもない。人間が秘めているさまざまな思い、ポジティヴなものもネガティヴなものも、ドビュッシーを弾く人は、そこにすべての感情を発見するだろう。揺れ動く気持ちの流れ、それがドビュッシー音楽だ。
ドビュッシーを弾くには多面性が必要
ドビュッシーのピアノ曲を弾くためには、多面性が求められると思う。ロマンティックに弾くとか、感覚的に弾くとか、頭脳的に弾くとか、どれかひとつではダメで、まじめでなければならないし、遊び心満載でなければならないし、なかなかやっかいな作曲家だ。
ここでは、そんな分裂して[た?]ドビュッシーのピアノ曲をいくつかのカテゴリーに分けて解説していこう。もちろん、筆者の独断と偏見で、この項目にこの曲はふさわしくない、とか、また別の分け方をしたい方もいらっしゃると思う。それも含めて、年代別でもジャンル別でもない、こんな分け方もあるという一例として楽しんでいただけたら幸いである。
1.おしゃれなドビュッシー
フランス音楽は、まず何よりも人を楽しませなければならない、とドビュッシーは言った。フランスのエスプリには、18世紀ロココ精神が宿っていると思う。貴族たちのお楽しみ、オブラートに包んだ会話、本心を包み隠した優雅な立ち居振る舞い。そんな洗練されたものを感じさせるのは、初期の〈アラベスク第2番〉。ロココ風の装飾音がちりばめられ、あくまでも軽やかに、楽しく、はずむような心で弾きたい。やはり18世紀ロココ時代の”雅びなる宴”をテーマにした《ベルガマスク組曲》の〈パスピエ〉。当初のタイトルは「パヴァーヌ」で、最終稿で現行のものになった。「パヴァーヌ」なら荘重で優雅な踊り、「パスピエ」なら軽やかて洒脱な踊り、と真逆なのだが、軽快にせよゆったりにせよ、”おしゃれ”を念頭に置いておけばピントはずれにならないですむ。
2.切ないドビュッシー
あの人は暗かった、心の底にはいつも”悲しみ”がありました、と、最初の妻リリーは回想している。貧しい家に生まれて苦学し、にもかかわらず贅沢なものを好んだドビュッシーは、いつも根源的な矛盾、悲しみをかかえていた。《ベルガマスク組曲》の〈月の光〉は優美な作品だが、18世紀の”雅びなる宴”をテーマにしたヴェルレーヌの詩には、過ぎ去ったものへのノスタルジー、悦楽のあとの虚しさが歌われている。ドビュッシーの〈月の光〉をうまく弾くと聴き手が泣くのは、そんな切なさを見事に音楽化しているからだろう《子供の領分》の〈雪は踊っている〉にもいいしれぬ寂蓼感が漂っている。曇ったガラスに鼻の頭をこすりつけて、あとからあとから降ってくる粉雪を飽かず眺めている少女。とびかう雪の上下にあらわれるとぎれとぎれの歌には「柔らかく、悲しげに」と記されている。少なくともここには、雪合戦に興じる子供たちの姿はない。
3.くらーいドビュッシー
本当に悲しい時、人は泣くことができない。大きく目を見開き、フリーズしている。《前奏曲集第1巻》の〈雪の上の足跡〉は、そんな心象風景を音楽化した希有な作品だ。冒頭のためらうような音形には、「このリズムは、淋しく、凍てついた眺めの奥に秘められた音価をもたなければならない」と書きつけられている。いわば、望みのない一歩一歩だ。中間部で少し希望の光がさしたかに見えるが、すぐまた暗い色調になり、「優しくみじめな哀惜にも似て」と記されている。実を言うと、この曲をあまりにもうまく弾くピアニストは、少し心配なのだ。健康な精神ならすみずみまで理解できるわけはないからだ、しかしまた、優れた演奏家ほど神経も繊細で、深い失意、支えるもののない絶望にとらわれたことがあるだろう。こんな究極の負の感情まで音楽にしてしまうドビュッシーは、やっぱりすごい。
4.お茶目なドビュッシー
最初の妻リリーにネクラだったことをばらされてしまったドビュッシーだが、ときには大はしゃぎすることもあった。作家のコレットは、リムスキー=コルサコフ《シェエラザード》の初演を聴いたドビュッシーが、興奮してひとりオーケストラをやりながらどんちゃん騒ぎをしてみせるドビュッシーの姿を目撃している。ヴォードヴィルのショーを模した〈ミンストレル〉は、ひとりでトンボを切ってみたり、小太鼓を叩いたり、安っぽい愛のドラマを演じたり、お茶目なドビュッシーの、面目躍如だ。〈風変わりなラヴィーヌ将軍〉は、つんつるてんの軍服でぎくしやくした踊りを踊るヴォードヴィルの芸人。大胆にも大作曲家のドビュッシーにショーの伴奏音楽を依頼した。これを断ったドビュッシーは、かわりに音楽で彼の形態模写をしてみせた。〈パックの踊り〉では、妖精の王様や女王さまをきりきりまいさせるいたずら好きの妖精パックの姿がユーモラスに描写される。
5.柔らかいドビュッシー
ピアノを弾くドビュッシーは、”柔らかなタッチ”で知られていた。2番目の妻エンマは夫のピアノ演奏、について「ショパンのように、ほとんどいつも半濃淡で弾いておりましたが、彼のタッチは全然堅さを感じさせず、深く充実した響きを出していました」と証言している。それもそのはず、ドビュッシーはショパンの門下生に手ほどきを受けたのだ。5本の指を均等に動かすための機械的な訓練を嫌ったショパンは、個々の指の個性を尊重し、柔軟性を活かして、画期的な奏法を編み出した、〈アラベスク第1番〉や〈亜麻色の髪の乙女〉は、まさにショパンの奏法によって書かれた作品だ。冒頭のレガートは、指先を立てると角ができてしまう。腕の重さは一定なのだから、たまたまその指の上に鍵盤がある、というぐらいのつもりで、指の腹を使い、重さを支える点を移動させていくと、すきまなくなめらかに弾くことができるだろう。柔らかいドビュッシーはショパンがルーツだ。
6.危ないドビュッシー
ドビュッシーはかなり危ない人物だった、オカルトに凝っていた時期もあるし、幽体離脱のように”別の自分”が勝手に冒険に乗り出して困る、と嘆いていた時期もある。前奏曲〈音と香りは夕暮れの大気に漂う〉は、聴覚、嗅覚など五感がないまぜになった”万物照応”の境地を歌ったボードレールの詩の一節だが、その源流は”19世紀最大の魔術師”エリファス・レヴィの同名の詩だった、ドビュッシーは、〈メランコリックなワルツ、目もくらむ陶酔〉の一節を5拍子に拡大し、摩詞不思議な浮遊感をつくり出している。ボードレールが翻訳・紹介したエドガー・ポーの怪奇小説に魅せられたドビュッシーは、1908年から死の前年まで、『アッシャー家の崩壊』にもとづくオペラにとりくんでいた。結局未完のまま終わってしまったが、《前奏曲第2巻》の〈水の精〉と〈カノープ〉には《アッシャー家の崩壊》の主要モティーフが引用され、禍々しい影を落としている。
7.キラキラのドビュッシー
古代ギリシャのデルフィ、スペインのグラナダ、イタリアのカプリ島。《前奏曲集第1巻》は観光案内書のようだが、ドビュッシーはどの地にも行ったことがない,すべては想像力の産物だった。〈アリカプリの丘〉とは、青の洞門で知られるカプリ島のモンテ・ソラロ山のことだろうアナカプリの町からリフトで登ることができる。5音音階の鐘ではじまり、タランテラありナポリ民謡あり、最後は強烈なフォルティッシモで終わるこの作品は、光に満ちている。《版画》の〈雨の庭〉も、どしゃぶりの中で、突然強烈な陽の光がさし込む箇所がある。《前奏曲第2巻》の〈妖精はよい踊り手〉の妖精さんは、ティンカーベルのように輝く羽根をうちふるわせる、そして、〈花火〉。パチパチはぜり、大空に大輪の花を咲かせ、ドカーンと打ち上がり、最後に二重グリッサンドで落下する。ドビュッシーはさまざまな水の様相を音で表象してみせた作曲家だが、なかなかどうして光や火の表現も巧みである。
8.神秘のドビュッシー
ドビュッシーは印象派のファンではなかったが、イギリスの画家ターナーのことは大好きだった,「もっとも美しい”神秘”の創造者である」ターナーにまで”印象派”のレッテルを貼る美術評論家にはがまんがならないと書いている。作曲家自身のピアノで〈水の反映〉を聴いたリカルド・ヴィニェスが、ターナーを連想させると言うと、「まさにロンドンのテイトギャラリーにあるターナーの前で、長い時間を過ごしたばかり」と答えた。神秘というのは日に見えないもの。印象派は目に映ったものを描く。真逆である。従って〈水の反映〉にも、水の諸様相を眺める作曲家の内部に沸き起こったものが描写されているのである。ドビュッシーはいつも、神秘的な物語に魅せられた。幽玄な〈月の光の降りそそぐテラス〉は、遠くインドの国で行なわれた戴冠式の模様を伝える記事に触発されて書かれたという。〈沈める寺〉の波間には、幼いころ、ブルターニュの海の上にせりあがってくる大伽藍の物語に心ときめかせたドビュッシーの記臆が漂っている。
9.色っぽいドビュッシー
ドビュッシーが生きた19世紀末、パリの文人たちはプルーストやジッドをはじめ性倒錯者が多かったが、ドビュッシーは珍しく異性愛者だった。最初の愛人は14歳年上の人妻、ボヘミアン時代に同棲していた”緑の目のギャビー”は見事なヌード写真を残し、最初の妻リリーはドビュッシーに捨てられたことを知ってピストル自殺を試みた。〈喜びの島〉は、二度目の妻エンマと駆け落ちした先で仕上げられた。冒頭のカデンツァは〈牧神の午後への前奏曲〉の物憂い旋律を装飾したものだし、5連音符のアルペッジョに付点のリズムがからみあう中間部は色っぽく、弾きながら思わずお尻をふりたくなってしまう。右手と左手が交差する部分のスケッチには、「以下の小節は、1904年6月のある火曜日にそれらを私に書き取らせてくれたバルダック夫人に帰属する」という書き込みがある。ちょうど、ドビュッシーとエンマが初めて結ばれたころだ、ボーンと鳴るバスの上で全音音階の3連音符と2連音符が重なりあい、だんだんテンポを上げて……うわっ。
10.アブストラクトなドビュッシー
好みの画家といえばモロー、ターナーで、つきあっていたのはモーリス・ドニなどのナビ派。ピカソやブラックには見向きもしなかったドビュッシーはキュビストではなかったが、音楽には抽象的なおもしろさがある。たとえば、《映像第1集》の〈運動〉、規則正しくまわる三連音符の上下に5度や8度の連結がとびかい、きっちり組み立てられた寄木細工のよう。人間的な感情のはいりこむすきまがない。《前奏曲集第2巻》の〈霧〉もそうだ。左手の和音は白鍵、右手の5連音符は黒鍵のままペダルで混ぜられて、非現実的な響きをかもしだす。
〈交替する3度〉では、3度音程のボールがお手玉のように空中に放り投げられ、また受けとめられる。かと思うと、響きのリボンのように連なって、ひとつの旋律を形作る。《12の練習曲》は、まるごと抽象芸術に捧げた作品という読み方もできる。ショパン全集の校訂に触発されて作曲を思いたったのだが、ショパンの重音の練習曲が各指の分離・独立を目的としていたのに対して、ドビュッシーはそこから派生したもの、3度、4度、6度、8度などさまざまな響きを素材に、時空の音画面を構成してみせたちょうど丸や三角や四角を使ったミロやクレーのコンポジションのように。
11.オリエンタルなドビュッシー
1889年のパリ万博で東南アジアの音楽に接して以来、ドビュッシーは東洋的な語法を取り人れて作曲するようになった。西洋は立体的・動的、東洋は、平面的・静的。ざっくり言ってそんな違いがある、《版画》の第1曲〈パゴダ〉には、ガムランのスレンドロ音階が使われている。ショパンのノクターンのようにカーブをつけて歌うと妙なことになるだろう。スレンドロ音階にオクターブがつくシーンでは、打楽器主体のガムランオーケストラのように、いろいろな響きが交錯しつつ、どこにも行き着かず空中でふわーんと漂っている。これに方向性をつけると、やはり妙なことになる。《映像第2集》の〈今や月は廃寺に落ちる〉の舞台は、カンボジアのアンコールワットと言われている。装飾音をつけた5音音階の初期スケッチには、ドビュッシーの手で「ブッダ」と書きつけられていた。だから、ギリシャ彫刻のように立体的につくると、これまた妙なことになる。唯一の例外は《映像第2集》の〈金色の魚〉、イメージ源はドビュッシーが持っていて蒔絵の箱に描かれた緋鯉だが、この鯉さんはとても西洋的で、3拍子で渦をまくトレモロの上でダイナミックに跳ね、蒔絵の箱なんかとび出して3次元的に躍動するこちらは東洋風のひたひたしたリズムではなく、西洋風の起承転結をつけないと、妙なことになるだろう。
12.対比のドビュッシー
自分は矛盾したものが好きだとドビュッシーは言っていた。その二重人格ぶりはなかなかのものだったらしい。彼の中にはジキルとハイドが住んでいた、とは年少の劇作家ルネ・ペテール。唯一のオペラ《ペレアスとメリザンド》では、どす黒い「地下の場」と光輝く「地上の場」の対比が鮮やかに描かれている。〈ヴィーノの門〉の冒頭には「ひじょうな荒々しさと晴熱的なやさしさを突然対比させて」と記されている、ずばり”対比”がテーマになっているのは、《12の練習曲》の〈対比音のための〉。澄んだ鐘の音の下に響きわたる慟哭の歌、響かせるタッチとべったり練るタッチ、漂うものと流れるものの対比。《前奏曲集第1巻》で、光輝く〈アナカプリの丘〉の後に凍てつく〈雪の上の足跡〉、荒れ狂う〈西風の見たもの〉の直後に静かな〈亜麻色の髪の乙女〉を起き、深遠な〈沈める寺〉のあとにコミカルな〈パックの踊り〉と〈ミンストレル〉を置くドビュッシーのメンタリティも、この”ジキルとハイド”をキーワードに読みとかなければならないだろう。