【連載】「酒・ひと話 第4回(終)」(読売新聞 日曜日版 2009年10月25日)

ケイとレツィナ

ケイのことをお話ししよう。ケイは私の可愛い後輩で、芸大を出てからフランスに留学した。留学する前、私の家に遊びにきた。青柳さん、私、どうしても留学したいんですと言って、遠くを見るような目つきをした。

クラシック一辺倒ではないケイは、高校時代はバンドを組んでブリティッシュ・ロックをやっていた。芸大に入学してからも、楽譜どおりきちんと弾かなければならないクラシックの約束ごとにどうしてもなじめなかった。

やがてケイはパリの私立音楽院に入学し、後を追うように私もパリに行った。博士論文を書くための短期留学で、奨学金ももらっていた。

ケイはオペラ座近くの豪華なアパルトマンに住んでいた。グラン ドピアノを入れて夜昼おかまいなしに弾きまくる。精神的に不安定なところがあるケイは、常用する睡眠薬や安定剤をディスプレイした棚を自慢げに見せてくれた。

ケイとレツィナ・ワインを飲んだのは、パリで開かれたあるコンクールのあとだ。

一次予選、ケイは運悪く一番くじを引いてしまった。朝の十時呼び出し。楽器はまだ目覚めていないし、演奏する当の本人も頭も身体も目覚めていない。審査員のほうも、まだ基準が定まっていないので、様子見の傾向が強く、よほど評判のピアニストでないかぎり点を控えがちになる。

楽屋でケイは二回吐いた。しかし、いったんステージにのぼるといつもの奔放さを取り戻し、ドビュッシーの『喜びの島』はとてもよかった。

弾き終えたケイは、開口一番、青柳さん、私のブーツ見てくれた? と言った。その日ケイは短い編み上げ靴をはいていて、先のとんがり具合がとてもおしゃれだった。

私は、ブーツもだけど、演奏もステキだったよ、と言った。だけど、きっと受からないだろうとは言わなかった。

落選が決まったあと、ケイをなぐさめるためにギリシャ料理のレストランに行った。松脂で香りをつけた白ワイン、レツィナを飲みながら、ケイはこんなことを言った。

青柳さん、私、あの人みたいに、ただ弾くためだけのピアノは弾きたくない、私は届けたいメッセージがあるから弾いているの。あれなら弾かないほうがよっぽどましだ。

あの人というのは本命と目されていたピアニストで、今は大変有名になっている。

レツィナを飲むたびに、あのときのケイの思い、目の輝きを思い出す。

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