【連載】「酒・ひと話 第3回」(読売新聞 日曜日版 2009年10月18日)

恩人の形見

モノ書きとピアノ弾きを兼ねる私の仕事部屋はふたつあり、ピアノの部屋にはワインがころがっているし、書斎には日本酒がころがっている。意図したわけではないが、なんとなくそうなってしまう。

デスクの上には、酒盃もころがっている。古志野の旅茶碗、備前の窯変ぐい呑み、沖縄で求めた泡盛用の猪口。
小ぶりの盃は、新潟在住の佐藤実さんからいただいたものだ。全体にうぐいす色の釉薬がかかり、底には鮮やかなトルコブルーが溜まっている。このブルーが、酒を注ぐと浮き上がって見える。

佐藤さんのお宅には吹き抜けの音楽室がある。グランドピアノも置かれ、定期的にサロンコンサートが催されていた。私が出演したのはその最終回で、もう七~八年前になるだろうか。ピアノを弾いたあとは地元のスタッフとともに手厚いもてなしを受けた。大広間にずらりと並べられた豪華な海の幸に歓声をあげたことを今でも思い出す。
ブルーの釉薬が浮き出る盃は、そのときに使わせていただいたものだ。

その後佐藤さんは、私が東京で大きな演奏会を開くたびにわざわざ聴きにいらした。九十歳近いご高齢なので、必ずどなたか付き添いをつけて、でもとてもお元気で、楽屋ではものすごい力で抱きしめてくださった。

昨年九月の折り、これはあなたに持っていてもらいたいと思って携えてきましたと、くだんの盃を渡された。そのとき、なぜか胸が詰まった。形見なんていやですよと申し上げながらありがたくいただいたのだが、佐藤さんはこの七月に亡くなり、本当に形見になってしまった。

佐藤実さんは、中央線沿線の文士が集った阿佐ヶ谷会のメンバーで、戦前に『城外』という小説で芥川賞を受賞した小田嶽夫の甥御さんに当たる。拙書『青柳瑞穂の生涯』を執筆するときはずいぶん資料を提供していただいた。
いささかきつい助言を頂戴したこともある。祖父の骨董蒐集は家族にずいぶん迷惑をかけたので、私自身は骨董には手を出さないように気をつけていますと申し上げたら、佐藤さんはまなじりを決して、何を言っているんですか、骨董に狂って身上をつぶすぐらいじゃなきゃ、お祖父さまの気持ちはわからないじゃないですかとおっしゃった。

今、デスクまわりの安物の盃をいじくりつつ佐藤さんの言葉を反芻し、つくづく自分は小市民よのおと思う。

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