なめらかなレガートをつくるショパンの未完のビアノ奏法
ショパンの未完のビアノ奏法
まず、私自身のピアノ体験をお話ししよう。子どものころは、バロックや古典派の課題が多かったので、指をよく上げてしっかりタッチしていればよかった。少し大きくなって、メンデルスゾーン《無言歌》のようなロマン派の作品がはいってくるようになってはたと困った。伸びる音でメロディーをなめらかに歌うことができなかったのである。以降、芸高、芸大とこの問題をひきずることになる。ことにショパンのノクターンは鬼門だった。
大学院の修士課程を修了してからフランスに留学したが、師事した先生が指を立てる奏法だったため、問題はいっこうに解決されなかった。
エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』の邦訳が刊行されたのは帰国して3年目の1983年のことだった。中にショパンが死の年に書きかけていた「ピアノ奏法」の草稿が掲載されている。とりわけ重要なのは、モスクワ音楽院の教授としてロシアンピアニズムのもとをつくったゲンリヒ・ネイガウスが「コロンブスの卵」と呼ぶシステムだ。
指を支える支点を移動させるショパンの秘法
長い指を黒鍵に、短い指を自然に白鍵に落とす魔法の音階とそれを使った練習。
「指の力を均等にするために、今までに無理な練習がずいぶん行われてきた」とショパンは言う。5本の指は長さもつき方も違うのだから、同一平面上に置いて均等に動かす訓練を長時間行うのはナンセンスだ、とショパンは考えた。
一本一本の指を垂直に打ち、筋力を鍛えた昔ながらの訓練を、指を支える支点の移動にシフトさせたショパンの秘法。目からウロコだった。
音階の件はさらに衝撃だった。芸大付属高校の入試にも出たハノンの第39番。様々な調性から指定されたものを弾く。一番むずかしいのは、黒鍵が多い嬰へ長調や変ロ短調で、一番やさしいのは全部白鍵のハ長調。誰もがそう思っていたところ、ショパンは「ハ長調は譜読みこそ一番やさしいが、まったく支点がないので手を動かすには最もむずかしい調なのである」と指摘する。そして、ロ長調や嬰へ長調のように長い指が黒鍵に乗る音階から練習をはじめ、最後に「一番むずかしいハ長調」を弾くようにと指導したのだ。
さきほどのシステムと同じ考え方だ。
指を根元から広げる減7のアルベッツジョ
同じ草稿に出てくる減7のアルペッジョも実に有効だ。手が小さく、和音をつかむときに手の甲と指を隔てる根元の関節が凹んでしまう人がいる。肩から腕に伝わる力がそこでストップしてしまう。指が長く、最先端だけひょいとのばしてつかんでしまう人もいる。しかし、手の甲の骨と骨の間から広げていかなければ、本当に良い音は出ない。
減7のアルペッジョは、指を根元から広げるために恰好の練習なのである。
「ピアノのテクニック」にも記載されているショパンのテクニック
ショパンのシステムを記した草稿は、亡くなったあと姉のルドヴィカが保管し、さらにポーランドのピアニストの手に渡り、そのピアニストが亡くなったとき競売にかけられ、コルトーが落札した。コルトーは一部を自分のピアノ奏法の本に引用している。
前述の通り、全文を掲載したのはエーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』だが、1947年に出版され、3年後に安川加寿子先生が翻訳・導入されたヴァン・デ・ヴェルド『ピアノのテクニック』の22ページにもショパンのシステムが記載されている。
私は子どものころ、安川先生に師事していたので、この教本は持っていたが、プレハノンのように使っており、かんじんのショパンのシステムのことはまったく気づかなかった。
安川先生は演奏活動と教育活動で大変忙しく、年末の発表会前に2回程度のレッスンを受けるだけだった。普段みてくださる先生は東京音楽学校時代に師事した方で、手ほどきを受けたわけではなく、このシステムのことはおそらくご存知なかったのだろう。
ピティナのeラーニングでショパンのシステムのことをお話ししたら、先生方から、手がしっかりしていない子どもには向かないのではないかという質問が寄せられた。
もっともなことである。ショパンは子どもの手ほどきをしたことはなく、彼の生徒の多くは上流階級のアマチュアの夫人たち、あるいは前途有望なピアニストの卵だった。
彼のシステムの画期的なところは、指の筋力に頼るのではなく、支点の移動によって鍵盤を押し下げることにある。それを実現させるためには、まず重さを支えるための関節をつくる必要がある。そうしなければ、黒鍵に乗せた長い指はへなへなとくずれてしまうだろう。
関節をつくる「逆立ち体操」
私は、逆立ち体操をすすめている。ピアノの蓋の上に指を逆立ちさせ、片方の手で隣り合った指の根元の関節を軽く動かしてみる。ガチガチで動かないこともあるし、逆立ちさせている指があらぬ方に動いていってしまうこともある。これを全指に行う。
逆立ち体操のあとは、ショパンのシステムの上に指をのせてみる。自然に指をのばした形で、手首を上下させる。このとき、鍵盤から指が浮かないように気をつけよう。
一本ずつ指をはなし、指の先端ではなく、根元の関節を動かしてみる。それから、たとえば5-3、4-2のように2本ずつ上げてみる。このときも隣り合った指の関節から力が抜けているかどうか確かめるために手首を上下させる。最後に1-2-5、1-3-5などの組み合わせで3本上げる。鍵盤をおさえている指が浮かないように気をつける。
システム上で一つひとつの音の発音練習も試みる。アタックが強いと音の減衰が速いので、ゆっくりと押し、弾いたあとの響きに耳を傾ける。あとになって伸びていく音をつくるのは容易ではないが、声楽家の発声練習のようなつもりで取り組むとよい。
なめらかなレガートをつくるためには、システム上に指を置き、支点(関節)の移動によって鍵盤をおしさげる練習をする。親指にあるものを人さし指に、人さし指にあるものを中指に移していく。
私はこの方法をバケツリレーにたとえている。今持っているバケツの水をこぼさずにそっと次の人に手わたす。少しでもすきまがあいたらバケツは転げ落ちてしまうだろう。
次に、手首を使いながらゆっくりと5つの音を弾いていく。上行は3-4、下行は3-2のあたりで手首が一番ふくらむように。
『ピアノのテクニック』の22ページのように、スラーをつけて弾いてみるのもよい。2つの音がスラーでつながれている場合は、最初に手首を沈め、次に上げることによって軽く切る。続く2つの音は手首でやわらかく切る。重さをかける指を変えながら弾いていく。
同じ作業を減7のアルペッジョでも行う。上行は3-4、下行は3-2に向けて手首を上げていく。ショパンのパッセージには3-4や3-2の根元の関節で支えると弾きやすいものが多い。
ショパンの品に調号が多い理由
ショパンのシステムを知れば、彼の作品にシャープやフラットのついた調性が多い理由もよく分かるだろう。子どもたちがよく弾く《ワルツ第13番作品70-3》(譜例1)にはフラットが5つついているし、有名な《小犬のワルツ》も5つ、《幻想即興曲》の主部はシャープが4つ。私が昔習ったように指を立てると黒鍵から指がすべり落ちそうで弾きに
くい。しかし、ショパンのシステムのように自然にのばした指を黒鍵に置き、かけた重さを次々に移していき、親指で次のポジションに連結させれば、何のむずかしさも感じずなめらかに弾くことができる。
《幻想即興曲》の中間部(譜例2)も同じ原理だ。指を立てる奏法では音の減衰が速く、伸びが悪い。発音練習の要領で伸びる音を出すことができたら、バケツリレーの要領でタッチをつなぎ、メロディーの方向に従った手首を柔軟に使いながらなめらかなフレーズをつくる。
ショパンが弾くと、フレーズはみな歌のように響いた、と弟子の一人が回想している。魔法のシステムを知ることによって、そんなフレージングに少しでも近づくことができますように。
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