【特集】没後100年ドビュッシーの世紀
1918年3月この世を去った、不世出の大作曲家ドビュッシー。
その後のクラシック音楽に新たな地平を開いた、偉大なる芸術家の足跡をたどります。
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1917年のドビュッシー
吉川:昨年、青柳さんが企画・演奏されたコンサート「1917年のドビュッシー」を聴かせていただきました。あのとき演奏された《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》は、ドビュッシーの最後の大きな作品ですね?
青柳:はい、まったく最後の作品です。
吉川:一緒に演奏されたのは、ガストン・プーレの息子さんでしたね?
青柳:ヴァイオリンはガストンの息子のジェラール・プーレです。1917年の初演では、ヴァイオリンがガストン・プーレ、ピアノはドビュッシー自身でした。
吉川:じつは、その前の年の1916年4月に、プルーストは結成まもないガストン・プーレ四重奏団を自宅に呼んで演奏を聴いているんです。
青柳:贅沢ですね。カペー四重奏団を自宅に呼んでいたとは聞いていましたが。
吉川:両方のようです。プーレにはべ一トーヴェン晩年の弦楽四重奏第十三番とフランクの弦楽四重奏を演奏させたようです。べつの機会には「自分が聴きたい音楽はフランクとドビュッシーと晩年のべ一トーヴェンだ」と手紙に書いています。『失われた時を求めて』の『囚われの女』に、音楽家ヴァントゥイユの「七重奏曲」という架空の作品が描かれますが、草稿では「四重奏曲」だったようで、これを書くための参考になるように聴いたのだと思います。
青柳:それは、プーレとドビュッシーが出会う前だと思います。プーレ・カルテットが、ドビュッシーの弦楽四重奏曲を聞いてもらいに訪ねて来るのは1917年3月でした。カルテットのヴィオラ奏者は《フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ》初演のためすでに訪問しているのですが、第1ヴァイリオンのプーレは初めてでした。それから少ししてドビュッシーはプーレに「いまヴァイオリン・ソナタを書きかけていて、ヴァイオリンの技法でわからないところがあるから教えてくれないか」と声をかけ、創作に協力してもらうことになったんです。ジッド、ルイス、ヴァレリー、ドビュッシー
吉川:私は青柳さんの文章のファンで、折りに触れて雑誌などで拝読し、ピアニストがどうしてこんな文章を書けるんだろうと感嘆していたんです。おじいさまの青柳瑞穂さんのモーパッサンの翻訳などを学生時代から愛読していましたが、これは血筋なのかなと。
青柳:たんに家に本があったというだけです。中学生のころ、堀口大學訳のジッド『一粒の麦もし死なずば』を暗唱するほど好きになったんです。そこからピエール・ルイスなど周辺の人たちの作品を読むようになりました。彼らの青春群像に惹かれ、1世紀違いのお兄ちゃんたちという気がしていたんです。ヴァレリーとルイスとドビュッシーで一緒に住もうかという話もあったんです。最初はドビュッシーは印象派だし……とあまり関心はなかったんですが、あっお兄ちゃんたちの仲間なんだと気づいて。
吉川:ドビュッシーは同時代の文学に恐ろしいほど通じてますね。
青柳:最先端ですよね。ランボーの『イリュミナション』が連載されていた文芸誌「ラ・ヴォーグ」なんかを愛読していました。また文学キャバレ「黒猫」に入り浸っていたり、「独立芸術書房」の常連でもあって。
吉川:どうして音楽家になったんだろうといぶかるくらいの傾倒ぶりですね。青柳さんは、ドビュッシーを印象派としてというより、ボーやボードレールやマラルメといった象徴派やデカダンの流れのなかに位置づけておられますが、それもプルーストと共通する点かと思いました。象徴派という呼称はともかく、これらの詩人や作家は、目に見えたり耳に聞こえたりする現象の背後に隠れた真実がある、その言いあらわしえないものを取り出すことが文学の使命であると考えていました。マラルメがその代表的存在ですが、ブルーストも表現の仕方は違っていてもその考えは共通します。もうひとつ、ドビュッシーとフルーストか共通しているのは、19世紀の大芸術と20世紀の前衛の橋渡し役というか、重要な分水嶺になっていると思われるところ。音楽の場合、19世紀のワーグナーに対して、前衛はストラヴィンスキーで、ドビュッシーは前衛になれなかったといいますか……。
青柳:そうすると、プルーストがなれなかった前衛というのはなんですか?
吉川:それは、やはりアポリネールとか、シュルレアリストとかでしょうね。文学の場合、19世紀後半の詩の代表はボードレールやマラルメ、小説ではフロベールでしょうか。絵画ではそれが印象派だとすると、20世紀の前衛はピカソですね。前衛にはなれなかったけれど、20世紀の前衛に道を開いた。歴史的な位置づけも二人は似ている。
青柳:ドビュッシーは抽象芸術はダメで、19世紀の方を向いていました。
吉川:プルーストも、ドビュッシーより9つ若いですが前衛ぎらいでした。バレエ・リュスも熱心に見ていましたが、コクトーやピカソが作ったものについては、あまり感心してはいないんです。
未完のリスト
吉川:青柳さんの『ドビュッシー想念のエクトプラズム』の巻末に、ドビュッシーの未完成・作品化計画の膨大なリストがありました。ヴィジョンがあんなにはっきりしていたのに、なかなか作品が実現できないという点にも興味を持ちました。プルーストもそういう悩みにとりっかれた作家なんです。20代に『ジャン・サントゥイユ』という『失われた時を求めて』の3分の1ほどの分量になる小説草稿を書くんですが、4年ほどで放棄し、その後ラスキンの翻訳研究に取り組み、さらに『サント=ブーヴに反論する』という批評集を計画したけれど仕上げられなかった。あの有名な無意志的記憶というのもその手段なんですが、現象の奥に潜む真実を取り出すという文学の使命を早くから理念として発見していたのに、なかなか作品として完成しない。
青柳さんも、ドビュッシーは文学好きとして音楽を書いたので、自分の作品の解釈者、批評家になりすぎたのが悲劇だと指摘されている。作品には勢いで書き上げないといけない面があって、批評意識が強すぎるとなかなか書けない。プルーストが『失われた時を求めて』を完成できたのは、小説と批評を融合したからだと思います。
青柳:小説の形をとった批評ですものね。
吉川:そのとおりです。プルーストが巧妙なのは、これから〈私〉が小説を書くところで終えている点です(笑)。
青柳:メタ小説ですね。
吉川:最初は理想を実現しようとしてうまくいかなかったんですが、その理想の小説を目指すのではなく、書かれていない理想の小説が、実作の向こう側にあるということをうまく示唆したんです。
青柳:プルーストはそこの切り替えができたことで、20世紀の小説の金字塔を打ち立てることができたけれど、ドビュッシーはそれができずに未完をいっぱい残してしまったんですね。
吉川:未完の《アッシャー家の崩壊》でドビュッシーが描こうとした人間存在の暗闇というのを、プルーストは、シャルリュス男爵やモレルのソドムの世界に書きこんだのではないか。そのあたりも含めて二人には似通っている部分が多くあるんだと、青柳さんの著作や連載を読んで改めて思いました。
青柳:とても嬉しいです。連載の最後にも「たぶんプルーストと同じような予感をもって創作した」と書きましたが、これは直感であってけっして実証したわけではありません。
吉川:面白い指摘だと思いました。
青柳:ドビュッシーは「印象主義」というレッテルにとどめられて、本当にやりたかったこと、実際にやったことが、正当に評価されていないような気がしています。音楽雑誌の書評で、自著について「あの美しい曲を作ったドビュッシーがオカルトに凝っていたなんて話は聞きたくなかった」と書かれました(笑)。音楽の世界は保守的なんですよ。
吉川:オカルティズムは19世紀、ユゴーに始まり当時かなり流行りましたし、プルーストの小説にもよく出てきます。
《ペレアス》とプルースト
吉川:ドビュッシーはやはり文学から発想を得た作品が多いんですか?
青柳:とにかくやりたかったのはテキストをともなう作品、歌曲やオペラですね。ピエール・ルイスの『ビリティスの歌』をもとに歌曲集と連弾曲を書いていますが、舞台作品での共作はうまくいきませんでした。音楽になるテキストにそうとうケチを付ける人だったようです。
吉川:オペラ《ペレアスとメリザンド》のときはどうだったんですか?
青柳:カットはしていますが、台詞はそのままです。その省略場面については、ルイスと一緒にメーテルリンクの許可を得にベルギーのゲントまで訪ねています。
吉川:プルーストが《ペレアス》を初めて全曲聴いたのは、1911年2月にテアトロフォンで、というのが定説です。
青柳:テアトロフォンってなんですか?
吉川:19世紀末に実用化された、電話回線で実況中継を聴く会員制システムで、オペラ座や、オペラ・コミック、コメディ・フランセーズなどの演目を聴くことができました。かならずしも音響はよくなかったようで、公演期間中、何度も聴いたプルーストは、主演のペリエの声が聞こえないときは自身で歌っていたというほど《ペレアス》に心酔していたようです。『ソドムとゴモラ』では、カンブルメール夫人を中心に《ペレアス》評が展開されています。
青柳:訳注に《ペレアス》の文体模写をつくったとありますが、これは?
吉川:プルーストは、大小説を書く前、あれこれ文学の道を模索していたとき、パスティーシュという文体模写をしていたんです。1908年におきたルモワーヌ事件というダイヤモンド偽装事件をフロベール、バルザック、ミシュレなどの文体で語る試みをしていたんですね。
青柳:文体修行?
吉川:そうなんです。公表されなかったんですが、その文体模写のなかに『ペレアス』を真似たものがあります。ペレアスとマルケルが出てくるんです。
青柳:アルケルではなくて?
吉川:アルケル王とマルセルを合体させてマルケルにしちゃっているんです(笑)。ペレアス役が友人のレーナルド・アーンで。こんな添え書きも「読者のかたがたは、問いかけの台詞の背後に、せかせかした速いテンポの朗唱法を、返事の台詞の背後には、ドビュッシー特有の哀愁をおびた重々しさや神秘的な悲しい調べを想像していただきたい。そうすれば、メーテルリンクの戯曲ではなく、ドビュッシーの歌劇台本に基づくささやかな文体模写が、いかに正確無比であるかが看取できるでしょう」
青柳:おもしろいですね。
吉川:プルーストは、1902年の《ペレアス》初演を友人のアーンと一緒に聴いた可能性があるという説もあります。プルーストの音楽の情報源は、友人のアーンであることが多いんですね。
青柳:アーンはドビュッシーが嫌いなんですよね?
吉川:ワーグナーとドビュッシーが嫌いだったようです。
青柳:カンブルメール夫人がペレアスの口調で話しているというところがありましたが、実際にピエール・ルイスたちのあいだでも、あの《ペレアス》の朗唱風の不思議なイントネーションを真似て会話するのが流行ったみたいです。
吉川:あのイントネーションは真似をしたくなりますね。プルーストはそれを小説にうまく取り込んでいます。また、カンブルメール夫人はワーグナーとドビュッシー以外は音楽じゃないと主張し、その母親はショパン崇拝者という設定にしています。
青柳:ドビュッシーは、ショパンの弟子にピアノの手ほどきを受けたので、出発はショパンなんです。1915年にショパン全集の楽譜の校訂にあたっています。
吉川:『囚われの女』のなかで〈パリの物売り Cris de Paris>についての言及があるんですが、当時、職人や商人たちの呼び声はすでに消滅の危機にあって、研究者が声を収集したりもしていたんです。プルーストはその物売りの声を《ペレアス》の朗唱やグレゴリオ聖歌に似ていると指摘しています。
青柳:一見かけ離れたものに共通点を見出すというのは、批評の王道ですよね。
吉川:そういう批評が、プルーストのおもしろいところです。やはり小説の筋のおもしろさでは、バルザックのような才能はなかったけれど……。
青柳:それはそう(笑)。でも、結局20世紀の小説はどんどんそうなって、ストーリーではなくなっていきますよね。
吉川:そういう意味でも二人は19世紀と20世紀の大きな分水嶺をなしています。
青柳:プルースト以後、ドビュッシー以後というのはひじょうにはっきりしていますよね。後世で最初にドビュッシーを評価した大作曲家はブーレーズだったので、19世紀的な側面が完全に切り取られてしまって20世紀音楽への貢献というところばかりがクローズアップされた感があります。共通の知人、ルネ・ペテール
吉川:プルーストは同性愛者でしたから、いろんな青年に恋心を仄めかすような手紙を書いているんですね。劇作家のルネ・ペテールという青年が散々会いたいと言ってきているのに、邪険にするプルーストの手紙がいくつも残っています。頻繁に会っていたのは1906、7年ごろです。ところが、コルブが編纂した書簡集では手紙のあちこちに欠落があるんです。いろいろマズいことが書かれていたのかなという気がしますね。二人の父親は医学アカデミーの同僚ということもあって家族ぐるみの付き合いだったようです。
青柳:ドビュッシーとルネ・ペテールとの手紙は結構残っていて、それを読むと、単に友情だけとは思えないところもあります。若い美男子を愛でるような……実際過剰に親切だったりしましたし、二人は戯曲をいくつも一緒に作ろうともしていました。
吉川:ふたりで一緒に戯曲を作るという計画は、プルーストもいだいていた。ルネ・ペテールは1911年に結婚するんですが、その時のフ.ルーストの手紙はJe vousembrasse.で締めくくられています。それまでの手紙にはそんなことは書かなかったんですけれど。
青柳:ドビュッシーがペテールと戯曲制作に取り組んだのはもう少し前、19世紀の終わり頃です。とっても親切で、ペテールの『死の悲劇』という戯曲のためにピエール・ルイスに序文を頼んだり、自分でも「子守歌」を作曲したり。ペテールは、ドビュッシーで味をしめてプルーストにも持ちかけたのかも(笑)。《ペレアス》以降
青柳:ドビュッシーは1904年に人妻のエンマ・バルダックと駆け落ちし、妻のリリーがピストル自殺を図ってスキャンダルになります。それで昔の友人がみんな離れてしまい、さらに1905年作の交響詩《海》が理解されず、社会的に孤立していました。《ペレアス》がいったん完成したのは1895年。《海》はそれから10年後の作品ですが、《ペレアス》の上演先が見つからず7年ほど塩漬けになっていたので、《ペレアス》に夢中になった人たちは、3年後の《海》が理解できず、裏切られたような気持ちになったようです。
吉川:《海》についてはプルーストの言及がないんです。そうすると、プルーストも理解できなかったのかな?
青柳:そうかもしれませんね。ドビュッシーの後期作品、たとえば1913年作のバレエ音楽《遊戯》や《前奏曲集第2巻》もかなり斬新なスタイルで、ブーレーズは20世紀音楽に扉を開いたという言い方をしました。《ペレアス》の上演 に7年かかってしまったことの、時間的喪失は大きいです。基本的にドビュッシーは怠け者なので、その間あまり作品を残していないんです。《ペレアス》の上演がもっと早かったら、と悔やまれます。
吉川:プルーストの第一巻『スワン家のほうへ』が出たのは1913年で、その後、第一次大戦などもあって中断、続巻『花咲く乙女たちのかげに』が出たのは1919年。ドビュッシーが亡くなった次の年ですから、ドビュッシーは作家としてのプルーストをほとんど知らなかったでしょうね。
青柳:おそらく、『スワン家のほうへ』の出版を断ったNRFのジッド同様、社交界ライターくらいにしか認識してなかったでしょうね。また、プルーストが出入りしていたようなサロンは、貧民窟から這い上がったボヘミアンのドビュッシーにはかなり敷居が高かったはずです(笑)。
吉川:いずれにしても、二人には単に同時代人という以上の共通項が見出せます。これまで二人を正面から取りあげた研究はあまりないのですが、今後ぜひ考えていきたいテーマです。
(あおやぎ.いづみこ/よしかわ・かずよし)