ショパン演奏の系統は、おおよそ5つに分けられるような気がします。
繊細・微妙なタッチで勝負する「エレガント派」(ピアノの詩人系など)、19世紀的な解釈をほどこす「デフォルメ派」(のーびたりちぢんだり系など)、正確無比なテクニックと客観的な解釈で演奏する「完全無欠派」(書いてある通り弾く系など)。20世紀にはいってからは、パワー全開の「ダイナミック派」(デモーニッシュ系など)や、「デフォルメ派」と「完全無欠派」をドッキングさせたような「こだわり派」(キッカイ系など)も出現します。
ショパン自身、いろんな要素を持ってたんですね。ポーランドに生まれ、民族音楽に取材した作品を沢山書いたけれど、後半生はパリ社交界の、極度に洗練された空間に活動の場を得た。世はヴィルトゥオーゾ全盛で、ショパンもまた、名ピアニスト、ピアノ教師として画期的な技法を追求した。蒲柳の質だったが、内には熱き血をたぎらせていた──。だから、光の当て方次第で、全然違ったショパン像ができてしまうんです。
[ I ]気品あふれる エレガント派
最初の「エレガント派」は、もちろんフレデリック・ショパン(1810-49)ですね。もしショパンが今の時代に生きていたら、フォルテがんがん、ペダルじゃあじゃあ、ルバートしまくりーの「ショパン」演奏にびっくりしたかもしれませんよ。彼は、ピアノを叩くような弾き方は大嫌い、「そんなものは犬の吠え声だ」と言っていたそうです。
弟子たちの証言によれば、ショパンがテンポを揺らすのはマズルカなど民族的な音楽だけで、ノクターンのように長い旋律が出てくる曲では、メロディは自由にルバートするが、伴奏は正確にリズムを刻んでいたそうです。ということは縦線ずれずれ?
うわっ。
ショパンの弟子ミクリに仕込まれたラオウル・コチャルスキ(1884-1948)の録音から、ある程度のことはわかります。《練習曲 作品25第7 》の訴えかけるような左手に対して、伴奏形は拍子をとるようにポンポンと弾かれています。ペダルは極端に少なく、8分音符のきざみも全部ノーペダル! よっぽど単音がのびる人じゃないと真似できないゾ。
ピアノの詩人系:20世紀に「エレガント派」を受け継いだのは、アルフレッド・コルトー(1877-1962)ですね。とくに《24の前奏曲》は名演。ルバートたっぷりの演奏ですが、リズムがしっかりしているので全然いやらしくならない。フレージングに何ともいえないポエジーがあります。コルトーは「弾けない」イメージが強いですが、意外に超絶技巧なんですよ。《練習曲 作品10第2》なんか、あざやかな指さばきでポリーニより0秒4速い1分21秒。いくらピアノ演奏は百メートル競争ではないとはいえ、これはすごい。
実は、コルトーには秘密兵器があったんです! ショパンが弟子たちのために書きかけていた教則本の原稿が競売にかけられ、それを手に入れたのがコルトーだった。リストの弟子たちが力づくでショパンを制覇しなければならなかったのに対して、少ない力で最大限に効果を発揮するショパンの画期的なメトードをひとりじめできたというわけです。
霊感系:リヒテルの先生だったゲンリッヒ・ネイガウス(1888-1964)もショパンのメトードを研究した一人です。演奏にはむらがありましたが、深々と心にしみ入ってくる歌い方で、霊感が降りてくるときは空前絶後の演奏をしました。彼の《協奏曲第1番》があまりに見事なので、リヒテルはこの曲をレパートリーに入れなかったほどです。
ノーブル系:ディヌ・リパッティ(1917-50)はコルトー門下なのにルバートせず、クリスタルのようなタッチで端正なピアノを弾きました。白血病で33歳で亡くなる直前の「ブザンソン告別リサイタル」で最後に弾かれた《ワルツ 作品18》など、涙なくしては聴けないですね。知的にコントロールされながら親密さを失わず、気品あふれる演奏です。
即興演奏系:やはりコルート門下のサンソン・フランソア(1924-70 )も46歳で亡くなりました。《バラード第4番》やノクターンでの、作品がたった今生まれたかのような即興性、語りかけてくるフレージングは、本当にステキでした。ノイエザッハリヒカイト(新即物主義)全盛時代の鬼っ子。もう半世紀早くか遅くか生まれていればよかったのに。
神童系:上流階級の子弟に指導したショパンは、リストと違ってプロフェッショナルな生徒を持ちませんでしたが、12歳で弟子入りしたカール・フィルチは本物の神童でした。「こんなとてつもない才能に出会ったのは初めてだ! 真似してできるものでもないのだから、わたしと同じ感情が本能的に働いて、何も考えずに、ごく自然に、他にはやりようがないとでも言うように弾いているのだろう」と語っています。ショパンは、カールの弾く《協奏曲第1番》を伴奏し、すっかり魅了されて涙を流すこともあったといいます。
エフゲーニ・キーシン(1971-)が12歳のときに弾いた1番の協奏曲を聴くと、カールの生まれかわりではないかとすら思います。熱く、また繊細に流れ出る音楽は、旋律のすみずみまで反応して細かい表情やテンポの変化をともないながら、まさに「他にはやりようがない」自然さをたたえています。カールは15歳で夭折してしまいましたが、キーシンは「エレガント派」から「ダイナミック派」に脱皮しつつ着々と成長をつづけています。
[ II ]デフォルメ派 ~天才肌ぞろい
デフォルメ派の元祖は、フランツ・リスト(1811-86)。ぶっとい指、ながーい薬指を持つピアニストです。ショパンの練習曲を初見で弾けなかったのに腹を立て、1週間誰にも会わずに練習したとか、ノクターンやマズルカに勝手に装飾をつけて弾き、作曲者に嫌な顔をされたという話も伝わっています。でも、リストのテクニックにはショパンも脱帽していたのです。ある友人に「リストがわたしのエチュードを演奏しているのを聴いていると、とても落ち着いた気持ちでは居られないのです。自分のエチュードを弾くのに、彼の演奏法を盗みたい心境に陥ってしまいました」(エーゲルディンゲル著『弟子から見たショパン』音楽之友社)と打ち明けているぐらいですから。
キラキラ系:リストの弟子たちの演奏はけっこう残っていますが、みんなタッチに切れがありますね。モーリツ・ローゼンタール(1862-1946)が69歳のときに弾いた《練習曲作品10第1 》や《黒鍵のエチュード》は、ちょっとリストの曲みたいに聞こえます。ひとつひとつの音がダイヤモンドのように磨き抜かれていて、あざやか。
のーびたりちぢんだり系:リストの弟子でポーランド人のレシェティツキの弟子たちのショパンは、すごく大胆なアプローチで、びっくりすること請け合いです。たとえばイグナーツィ・フリードマン(1882-1948)の《バラード第3番》など、イントロからして大ルバートがかかっていて、思わずのけぞってしまうんですが、勝手気ままにくずしているのではなく、リズムや旋律、和声のアゴーギグを研究した結果なのです。リズムの遊びを思いっきり強調したり、旋律の上昇・下降にともなって強弱や抑揚に極端な変化をつけるフリードマンのアプローチは、マズルカで一番活かされています。
アルペッジョ系:やはりレシェティツキの弟子で楽譜の校訂者でもあるイグナーツィ・パデレフスキ(1860-1941)の演奏で耳につくのは、和音をしょっちゅうアルペッジョにしてしまうことです。《軍隊ポロネーズ》など、のっけからゆるーいアルペッジョで弾きはじめるので、こんな音楽で送り出されたら、兵隊さんたちはお散歩に行きたくなるのではないかと心配です。《黒鍵のエチュード》の左手までアルペッジョにしなくてもいいと思うけどなぁ。
かけ値なしにうまい系:ローゼンタールの指さばき、フリードマンの自在、ショパンのポエジー、リストの悪魔性を加味したようなウラディーミル・ホロヴィッツ(1904-89)のショパン。死の4日前に録音されたという《夜想曲作品62第1》の陰のつけ方、光彩を放つ美しいトリルなど、叫ぶことすらできず、ただただ感嘆して聴くのみです。
おしゃれ系:ジャン= マルク・ルイサダ(1958- )の『マズルカ全集』は、寡黙なミケランジェリと反対。表現が内にこもらず、どんどん外に出ていきます。ベルカントによく歌う音、伸縮自在のメロディ、いなせなリズム。《マズルカ作品24第2》や《マズルカ作品24第4》など、とってもおしゃれなショパンです。カノジョにすっぽかされても、僕、ふられちまったよー、と明るく言えるタイプ。ほんとうは人一倍寂しがりやさんかもしれないのに。
[III]完全無欠派~忠実に、華麗に
ホンバンに弱い系:「完全無欠」派の元祖とみなされているレオポルド・ゴドフスキ(1870-1938)の録音にはちょっとがっかり。ショパンの練習曲をネタに演奏至難の超絶技巧練習曲を書いてしまった人だから、どんなスーパー技巧を披露してくれるかと思ったんですが。ローゼンタールなどに比べてどう見てもタッチがそろってない《黒鍵のエチュード》は、オクターヴの連続ものんびり降りてきます。ゴドフスキは超のつくあがり症で、ステージであれ録音であれめったに実力を発揮できなかったといいますが。
玄人好み系:控えめな演奏ですが、聴くそばから「うめえ!」を連発してしまうのがクララ・シューマンの弟子に師事したカトナー・ソロモン(1902-88)。《別れの曲》《バラード第4番》など、微妙な心のひだを聞かせてくれます。ルバートではなく音色の変化でそれをやるんです。そうかと思うと切れのよいタッチで《練習曲 作品10第8》や《練習曲 作品25第3》を弾いてくれる。どんなに指が沸きたっても音楽は沸騰寸前で踏みとどまる憎い芸当。温かく透明感のある音で紡ぎだされる《夜想曲作品27第2》や《子守歌》も絶品。
むっつり系:「鍵盤の獅子王」ウィルヘルム・バックハウス(1884-1969)はベートーベン弾きとして一世を風靡したのですが、自宅ではこっそりショパンを弾いていたそうです。そのバックハウス69歳の録音があります。クソ真面目な顔をしながら、ときどき口もとをにっとゆるめたり、なにげにすごく興奮したり、珍しいショパンです。もっと珍しいのは、パララン、パラランと手すさびみたいなアルペッジョを弾いてから曲を始めること。聴衆の拍手を静めるためで、今はすたれてしまった習慣とか。ちなみに録音は1953年。
絢爛豪華系:アルトゥール・ルビンシュタイン(1887-1982 )といえば《英雄ポロネーズ》ですね。背筋をすっとのばし、和音を弾くたびに大きく腕をふりあげる姿が目に浮かびます。背は低いのに手は巨大で、12度も届いたそうです。情熱的だが感傷的ではなく、技巧派だが無機的ではない壮麗なスタイルで、とくに《スケルツォ》ははまりでした。
書いてある通り弾く系:20世紀前半最高のピアニストと称されるのはヨーゼフ・ホフマン(1876-1957)、後半はマウリツィオ・ポリーニ(1942-)。この二人に共通しているのは、主情を排して楽譜に忠実な解釈を心がけたことです。といっても、19世紀生まれのホフマンと20世紀生まれのポリーニとでは徹底ぶりが違いますけれど。
2人に共通しているのは、とってもスマートな音楽をやることですね。ホフマンの《協奏曲第1番》など、オーケストラがコテコテの序奏を弾いているのに、そんな古くさい解釈はごめんだ、とばかりに全く脈絡ないテンポで弾き出してしまいます。切れのよいピアノで指さばきは抜群だから、《第2番》の方が合っていますね。
ポリーニがショパン国際コンクールに優勝したときの《協奏曲第1番》も、胸がすくような快演ですね。指はめっちゃくちゃまわるし、リストの弟子たち並みに音の粒もきわだっているんですか、解釈は正反対。ドイツの名批評家ヨアヒム・カイザーは、「この青年がショパンを弾くということは、涙にくもる眼ざしを空にむけ、私的な嘆きの歌をうたうことではない。(中略)これほど感傷に堕しやすい音楽が突如、自らの尊厳と威容を自覚するように思われる」(『現代の名ピアニスト』白水社)と書いています。「性格の違う兄弟を無理矢理むすびつけたような」《ソナタ第2番》をあんなに立体的に弾けるのはポリーニしかいないんじゃないかと思います。
[IV]ダイナミック派&こだわり派
デモーニッシュ系:20世紀の「ダイナミック派」の筆頭はスビャトスラフ・リヒテル(1915-97 )でしょう。リヒテルのショパンは暗くて、ゆっくりな部分ではどよーんと沈み込んだ印象があるんです。どんなになぐさめても浮き上がってきてくれないような。ところが、指が走り出す場面ではとたんにガーッと行く。《練習曲 作品10第4》など、何やらものすごいオーラを発していて、聴く方も否応なしに渦に巻き込まれてしまいます。
アマテラスオオミカミ系:自分でも心理学の本を読むのが好きで、意識下の意識に興味があると語っているマルタ・アルゲリッチ(1941-)は、憑依した巫女のようにショパンを弾きまくります。彼女の恐るべきテクニックも自由奔放な音楽性も、本番で憑依するための手段にすぎないんです。なかでもすごかったのが、ショパン・コンクールのときの《協奏曲第1番》。彼女が足を踏みならし、胸乳もあらわに踊ると、スサノオノミコトならずともみんな天の岩戸から出てきて踊り出してしまう、みたいな。
シュール系:20世紀「こだわり派」の親玉は、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-95)。ピアノの調律も含めてあらゆることに気むずかしくこだわりました。彼の弾く《ソナタ第2番》は、この世のものとも思えない神秘的な音と凝縮した表現で、何度聴いても寒けがしますね。最終楽章では、バランバラン鳴りきったものすごいタッチで凍りついてしまいます。でも、「葬送行進曲」のトリオ部分とか、《マズルカ 作品68第4》とか、よーく聴いていると彼の孤独感が伝わってきて胸が熱くなります。
超絶技巧系:南仏生まれのシプリアン・カツァリス(1951-)は、玄人好みのする腕達者かもしれませんね。《バラード第2番》のコーダ部分、機関銃のように炸裂する重音の連打音をノーペダルで弾き、しかも左手の内声を歌わせる余裕があるところなんか。
瞑想系:クリスティアン・ツィマーマン(1956-)は、同じポーランド人でもレシェティツキの弟子たちと正反対の内省的なピアニストです。なかでもすばらしいのは《舟歌》や《幻想曲》で、ひとつひとつの表現が考えぬかれていて深い思索を感じさせます。
キッカイ系:ショパン・コンで、マズルカの解釈がキッカイだったという理由で予選で落とされ、審査員のアルゲリッチが怒って帰ってしまったイーヴォ・ポゴレリッチ(1958-)。故アリス・ケゼラーゼとリストの弟子シロティの解釈を研究したというその演奏は、ペダルとルバートでカオス状にされたショパンに慣れた耳には新鮮でした。とりわけ衝撃的だったのは《24の前奏曲》で、複雑にからみあうショパンの書法を見事に解きほぐしています。切れ味抜群のタッチは、最初聴いたときはゲーム機のピポピポいう音に似ていると思ったのですが、時がたつにつれて有機的に聞こえるようになってきました。
おどろ系:グレン・グールド(1932-82)にも《ソナタ第3番》の録音があるんです。バッハを弾くときのスポーティなグールドはどこへやら、とにかく重いですね。ストレッタで逆にブレーキがかかってしまうし、音も謡のように喉をしめて発声している感じ。第2楽章のトリオでありえないキモイ音がしている! ショパンが聴いたらどんな顔をしたか、チョット見てみたかったですね。