【特集】「読んでから聴くクラシック入門」(中央公論 2008年10月号)

作曲家を知る楽聖たちの人間像を読み解く

クラシック音楽の適切な入門書を探すのはそうたやすいことではない。音楽には文学や美術と違って楽譜や音楽用語という壁がある。作品を解説する場合、文学なら文章を引用し、美術なら画布や彫刻を図版として掲載することが可能なのだが、書籍では、音をそのまま出すわけにはいかない(将来はできるようになるかもしれないが)。そこで、やむなく楽譜を引用し、化学式のように難解な楽語を使って分析することになる。ところが、義務教育期間にある程度のことは学習しているはずなのに、一般読者にとってはこの楽譜が最大のネックになるらしいのだ。音符を見ただけ、楽語を読んだだけでは音が聞こえてこない読者にとって、音楽書の譜例や楽曲分析は苦痛以外の何ものでもないだろう。

研究書と読み物にも大きな落差がある。最先端の研究を反映させた書物は分厚く、難解だ。本来なら、最先端の情報を反映させた読み物が一般読者や演奏家に蒙を啓くべきなのだが、従来の学者はなかなかそこまで降りてきてくれなかった。これはおそらく、音楽は基本的に音をもってなす芸術で、言葉は必要がないという考え方からきているのだろう。そんなわけでここでは、最新情報をおさえつつ、一般読者にもわかりやすい平易な語り口で書かれた本、作曲家の人間的な側面に迫ってくれるような本を選んでみた

小川(バッハ)に始まる

最初は、ドイツ三大Bの一人、ヨハン・セバスチャン・バッハ(一六八五~一七五〇年)。バッハとはドイツ語で「小川」という意味なのだが、どうしてどうして、バロックを源流に古典から現代音楽、ジャズまで、多くの支流に分かれながら滔々と流れている。教会音楽が多いせいか、タイトルにも「神」とか「汝」とかいかめしい言葉が並んでいて敷居が高い印象があるが、磯山雅『J・Sバッハ』は、バッハはなぜ敬遠されるのかということから筆を起こし、教会付属学校を終えてすぐ音楽家になり、大学を出ていないために出世が遅れたこと、超がつく数字マニアで、数の象徴を楽譜に盛り込んだことなど、身近に感じられるエピソードを紹介している。入門用のおすすめ二〇曲とCDのリストも参考になるだろう。

私が興味をひかれたのは、バッハが五十歳になり、一七番目の子供(バッハは20人の子だくさんだった)が生まれた年、「音楽家バッハ一族の起源」なる記録を書いたというくだりだ。初代バッハはハンガリーの食パン職人で、宗教上の理由からドイツに移住してパン焼きをつづけたが、音楽が大好きで、粉をひくあいだにツィターを演奏したという。バッハ自身はそこから二四番目の子孫なのだ。ここで私は、フランク・サリヴァンのショート・ショート『忘れられたバッハ』(ハヤカワ文庫)を思い出してしまう。音楽家ぞろいのバッハ一族でただ一人「音痴」に生まれてきた子孫にまつわる抱腹絶倒の物語だ。

次は、ウイーン古典派の人気者、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(一七五六~九一年)。メーリケ『旅の日のモーツァルト』(岩波文庫)、アンリ・ゲオン『モーツァルトとの散歩』(白水社)、小林秀雄『モオツァルト』(新潮文庫)など名著には事欠かないし、大部の評伝から読み物まで多数刊行されているのだが、それぞれ思い入れが強すぎて選択に苦慮する。いっそのことモーツァルト自身の声をきいてみようと、高橋英郎の編纂した書簡集を選んだ。高橋英郎はもともとフランス文学者だが、モーツァルトに私淑し、「モーツァルト劇場」を主宰して公演を行うなど「実践をともなう」研究者である。『モーツァルトの手紙』にも、一般読者への配慮が随所に見られる。紙面構成がとてもいい。中段でモーツァルトの書簡を年代を追って解説つきで紹介し、下段では手紙に登場する人物や場所の写真を載せたり、注をつけたりして、すぐ理解できるように工夫している。図版として幼時からの演奏旅行の地図や旅程表も収載している。しかし、何より秀逸なのは、モーツァルトの言葉遊びを、漢字で意味、カタカナで音を示して二重に翻訳しているところだろう。汲めども尽きぬ言葉の泉から、天衣無縫な遊びの精神がびんびん伝わってくる。

モーツァルトとくれば、古典派の巨人、ルードヴイヒ・ファン・ベートーヴェン(一七七〇~一八二七年)。評伝としては、「楽聖」のイメージを大きくくつがえすメイナード・ソロモン『ベートーヴェン』が決定版。ベートーヴェンの死後、「不滅の恋人」へのラヴレターが発見された。相手は誰なのか、研究者の問でさまざまな論議がかわされてきたのだが、ソロモンはこの謎に挑み、大胆な仮説を打ち出している。なんと、「不滅の恋人への手紙」はラヴレターではなく、情緒不安定で嵐のように迫ってくる人妻をなだめる目的で書かれたのだという。上下二巻本がいかにも分厚くてしりごみするという向きには、豊富なカラー写真とともに生涯がコンパクトにまとめられている平野昭『ベートーヴェン』で基礎知識をつけてみたらどうだろうか。

ロマン派とその時代

ロマン派の作曲家では、時代背景とのかかわりに焦点を当てた本を読んでほしい。フレデリック・ショパン(一八一〇~四九年)とローベルト・シューマン(一八一〇~五六年)は同年の生まれだが、気質はずいぶん異なっていた。一八三〇年、演奏旅行中にワルシャワ動乱が勃発して故国に帰れなくなったショパンは、翌年パリに赴き、同地で亡くなった。河合貞子『ショパンとパリ』は、一躍パリ社交界の寵児となったショパンが、ジョルジュ・サンド、ハイネ、バルザック、ドラクロワなどきら星のような文人たちと交流するさまを活き活きと描いた好著である。当時のパリはブルジョワ階級が実権を握り、三つもオペラ座をもつなど、世界一の音楽マーケットとして繁栄していた。ピアノ界はヴィルトゥオーゾ時代で、各地から腕白慢が集まり、われ先に公開演奏を行う。バルザック『従兄ポンス』は、そんな競争社会に乗り遅れてしまった老ピアニストを主人公にした小説である。主人公の親友、ドイツ人のシュムケは「ときにはラファエロを思わせるショパンの悩みと完全な仕上げをもって、ときにはリストの奔放とダンテの壮大さをもって」ピアノを弾くと描写されている。圧倒的なパフォーマンスで聴衆を魅了したリストとは対照的に、ショパンは上流社会のサロンを活動の場に定め、力よりは優雅さと繊細さを追い求めた。

マルセル・プリオン『シューマンとロマン主義の時代』は多少難解かもしれないが、E・T・A・ホフマン、ジャン・パウルを耽読し、ハイネの詩で多くの歌曲を作曲し、『音楽新報』の主筆として評論の筆をとり、ショパンやブラームスを世に出すために尽力したシューマンの多面的な活動を理解する上で避けては通れない一冊である。ロマン派人の常として夢と現実の相剋に悩まされていたシューマンは、瞑想的なオイゼビウスと攻撃的なフロレスタンという架空の人物に託して音楽評論を展開した。作曲は彼の分裂し弄人格とおりあいをつける唯一の手段だったが、そのことがまた彼をひどく疲れさせ、精神の病に追い込んでいった。著名なピアニストだった妻のクララは、そんな夫を支え、四男四女の子育てをしながら、夫の邪魔にならないよう練習をきりつめ、しかし、家計を支えスために始終演奏旅行に出なければならなかった。この信じられない生活を乗り切って長生きしたクララは、よほど精神的にも肉体的にも強靭な女性だったのだろう。

後期ロマン派のヨハンネス・ブラームス(一八三三~九七年)になると、同世代や近親者の回想が残っている。『ブラームス回想録集』は、二十歳でシューマン夫妻のもとを訪れた青年ブラームスの思い出にはじまり、作曲の弟子たちや、彼にピアノを習ったクララの娘たちの回想、年下の作曲家が伝えるえるブラームス自身の言葉まで、リアルタイムのブラームス像を伝えてくれる貴重な書である。ほほえましいエピソードには事欠かない。自作の《ピアノ協奏曲第一番二短調》は豪快に弾くのに、シューマンの《ピアノ協奏曲イ短調》では重要な箇所をミスしてしまい、あわてて練習するブラームス。ピアノの生徒にはやさしくかみ砕いて指導するのに、作曲の弟子は冷たく突き放すブラームス。クララ・シューマンにあこがれるあまり生涯独身を通したブラームスは、どうして結婚しなかったのかときかれ、次のように答えている。「結婚する気が大いにあったころ、自分の作品は斬新すぎて会場でヤジられっぱなしだった。作品には自信があり、いずれ形勢逆転するだろうと信じていたが、もし家庭をもっていたら、帰宅するたびに心配そうな妻を見て『まただめだった……』と言わなければならず、そんなことは耐えられない」。

世紀末の作曲家

ウィーン世紀末の作曲家グスタフ・マーラー(一八六〇~一九一一年)は、アルマという二十歳近く年下の才色兼備の女性と結婚し、亡くなるまで一〇年間の結婚生活を送る。『グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想』は、そのアルマの回想録である。発表を目的として書かれたものではなく、また、著者の思い込みその他から矛盾や事実の歪曲も多いのだが、登場人物はめちゃくちゃ豪華だし、読み物として実にスリリングだ。大作曲家に盲目的に仕える気などさらさらなく、自身も芸術家として生きたいと願っていた妻と夫とのぶつかりあいが、喚起力豊かな文章であますところなく綴られている。アルマの一方的なグスタフ観に首をかしげる読者には、アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー失われた無限を求めて』(草思社)をおすすめする。

フランス世紀末では、クロード・ドビュッシー(一八六二~一九一八年)の生涯が格段におもしろい。彼は印象主義音楽の創始者と言われているが、実は、クロード・モネとは何の関係もなく、デカダン派のたまり場「黒猫」や象徴派の聖地、マラルメの「火曜会」に出席し、周辺の詩人たちとつきあい、最先端の文芸誌を講読するなど、文学青年のようにふるまっていた。若いころのドビュッシーがあるアンケートに答えた回答が残っている。「好きな詩人は?」ときかれてボードレール、「好きな作家は?」ときかれて、ボードレールが怪奇小説を翻訳したエドガー・アラン・ポーと答えているが、それはそのまま時代精神を反映させているのである。拙書『ドビュッシー想念のエクトプラズム』では、ドビュッシーとパリの詩人たちとの交流、ポーにもとつく表完のオペラ『アッシャー家の崩壊』を紹介しつつ、「ドビュッシー=印象主義」のレッテルをはがそうとつとめている。『ダ・ヴィンチ・コード』の中で、ドビュッシーが「シオンの修道院」という秘密結社のグランドマイスターに名を連ねていることが明らかにされた(といっても、リストそのものの信憑性は薄いが……)が、そんな彼のオカルト趣味を検証した補章もぜひ読んでいただきたい。

ドビュッシーと同世代だが、むしろダダイスムやシュールレアリスム、二十世紀音楽に大きな影響を与えたエリック・サティ(一八六六~一九二五年)については、秋山邦晴『エリック・サティ覚え書』が新装版として刊行されたのが嬉しい。モンマルトルの文学酒場のピアニストとしてほそぼそと生計をたてながら、《梨の形をした三つの小品》《(犬のための)ぶよぶよした前奏曲》《乾からびた胎児》など変てこなタイトルの作品を書いていたサティは、四十八歳で詩人のジャン・コクトーと知りあい、ロシア・バレエ団が主催する『バラード』のための舞踊音楽を依頼される。一九一七年に初演された『バラード』は、コクトーの台本、ピカソの舞台装置、プログラム解説にアポリネールという究極の布陣で、タイプライターやくじ引きのガラガラなどの「騒音」を使ったサティの音楽ともども大スキャンダルをひきおこした。この上演を機に、のちに六人組を結成する若い作曲家たちがサティのまわりに集まってくる。映画ファンは、サティ最後のバレエ『本日休演』の幕間に上映された、そのものズバリ『幕間』という映画の梗概にひきつけられるだろう。シナリオはダダの詩人・画家のピカビア。シャンゼリゼ通りのビルの屋上でフロックコート姿のサティとピカビアがエッフェル塔に向けて大砲をぶっぱなしている。屋根の上でチェスをしているのは、やはりダダの画家、デュシャンとマン・レイ。演出は、なんと、無名時代のルネ・クレール監督!

オペラを知る

本編の中ではヴェルディ、プッチー二、ワーグナーなどオペラ作曲家をとりあげられなかったので、岡田暁生『オペラの運命』(中公新書)を紹介しよう。著者の定義する「オペラ」とは、「絶対王政時代に宮廷文化として誕生し、フランス革命以降はブルジョワ階級と結合して十九世紀に黄金時代を迎えた音楽劇の一ジャンル」ということになる。オペラ座は封建貴族社会と近代市民社会の出会いの場で、そこにはいつも、フランス料理店のような格式の高さと、場末の芝居小屋の熱気とが同居している。著者は、貴族性と庶民性の対立と混清を軸に、宮廷祝祭としてのバロック・オペラから、庶民性を導入したモーツァルトのオペラ、「成金貴族の知的ブランド」としてのグランド・オペラ、非独立国家の「国おこし」としての国民オベラ、帝国主義の副産物としての異国オペラ、オペラ史の「巨大なプラックホール」ワーグナー、「映画という勝ち目のないライヴァル」の出現で前衛に走った二十世紀オペラ……とたどりつつ、社会情勢に照らし合わせて明快な図式を描いてみせる。クラシックに不案内な読者でも、政治・社会とのかかわり、あるいは家族・男女関係から攻めていけば、作曲家や作品もぐっと身近に感じられることだろう。

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◆青柳いづみこが選ぶ 作曲家を知る本10冊◆

『J.S. バッハ』
著◎礒山雅 講談社現代新書 756円

『モーツァルトの手紙』
著◎高橋英郎 小学館 3990円

『ベートーヴェン』(上下)
著◎メイナード・ソロモン
訳◎徳丸吉彦ほか
岩波書店 上4725円、下4410円

『ベ一トーヴェン カラー版作曲家の生涯』
著◎平野昭 新潮文庫 580円

『ショパンとパリ』
著◎河合貞子 春秋社 2100円

『シューマンとロマン主義の時代』
著◎マルセル・ブリオン
訳◎喜多尾道冬ほか
国際文化出版社 品切れ

『ブラームス回想録集』(全3巻)
著◎アルベルト・ディートリヒほか
訳◎天崎浩二ほか
音楽之友社 1680~2100円

『グスタフ・マーラー愛と苦悩の回想』
著◎アルマ・マーラー
訳◎石井宏
中公文庫 840円

『ドビュッシー想念のエクトプラズム』
著◎青柳いづみこ 中公文庫 1200円

『エリック・サティ覚え書』
著◎秋山邦晴 青土社 5460円

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